観光が10倍楽しくなる!5分で分かる久米島の歴史

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島暮らしのおかもってぃ
地域おこし協力隊。東京生まれ東京育ちのシティボーイ。マニアック過ぎて役に立たない久米島情報を発信中!
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こんにちは!

島暮らしのおかもってぃです。

 

高校時代、

社会の授業=睡眠時間

という方程式を持っていた僕は、歴史を学ぶ意義を全く理解できませんでした。

 

ですが、昨年度久米島に引っ越してきて、歴史を知ることの楽しさに気付いたんですね。

 

島内にある歴史跡も歴史を知ってから見る方が断然面白いんです。

久米島が誇る沖縄民俗学の研究家、仲原善忠氏は久米島の歴史を大きく4つに分けました。

部落生活時代、按司の時代、琉球王時代、明治大正時代

それに、先史時代も加え、久米島の歴史をざっと概観したいと思います。

久米島の歴史の5つに分けて振り返る

先史時代

約2000万年前、東シナ海がまだ存在していなかったころ、琉球列島は中国大陸と陸続きでした。

そして約1500万年前に起きた火山活動により、今のアーラ岳層が出来上がります。

その後も続く火山活動によって現在の久米島は形成されました。

 

そして現在の東シナ海が形成され、琉球列島と中国大陸は分断されることになるのです。

 

人間が住み始めた歴史も古く、島内の下地原洞穴から1.5万~2万年前の幼児の化石骨が発掘されています。

島の北側、大原地区には約3500年前に使用されていたと思われる貝塚も見つかっており、

人類が共同生活を営んでいた様子を見ることが出来ます。

 

先史時代についてより詳しく知りたい方は以下から

観光する前に知っておきたい!詳解久米島の歴史:島の形成

2017.01.06

部落生活時代

久米島が日本史に登場するのは8世紀初めに記された「続日本紀」

そこに『球美の人が奈良を訪れた』という記述があります。

この「球美」というのが久米島のことなのではないかと言われています。

 

水が豊かだった久米島は古くから稲作を営んできました。

そして、農業を基盤に各地に小さな部落がつくられていきました。

部落を作るときに、まずその部落の守護神を祀る御嶽を選定します。

御嶽は人工的に作られた何かではなく、森や背の高い木々があるところでした。

 

その御嶽で部落の草分けとなった一族の女性が加持祈祷を行い、その地区を統治していきます。

部落の草分けとなった家を根所(ニージェ)といい、根所の男主人を根人(ニーンチュ)と呼んでいました。

彼らは、「ひや」とも呼ばれました。

「〇〇のひや」と人物が、久米島の歴史の中ではたびたび出てきますが、それは〇〇地区のリーダーということを表しています。

祭祀を執り行う女性は根神(ニーガミ)と呼ばれました。

このような祭政一致のシステムの下、中国との貿易も行い、独自に発展を遂げていったと言われています。

 

部落生活時代について、詳しくは以下から

観光する前に知っておきたい!詳解久米島の歴史:部落形成、祭政一致の時代

2017.01.10

観光する前に知っておきたい!詳解久米島の歴史:狩猟採集~交易の時代

2017.01.05

按司時代

14世紀~15世紀ごろ、按司と呼ばれる豪族が久米島に来て、統治を始めます

彼らは沖縄本土での権力争いに敗れた豪族だと言われています。

中でも大いに権力をふるったのが伊敷索(チナハ)一族

父と息子3人で各地に城を築き、その力を大いにふるいました。

 

 

父の『伊敷索城(チハナグスク)』は現久米島博物館のある場所に立てられ、

長男は『宇江城(ウエグスク)』、次男は『具志川城(グシカワグスク)』、三男は『登武那覇城(トゥンナハグスク)』を与えられます。

元々いた集落のエリートたちはこの一族に積極的に協力することで、外部からの侵入者の中でも地位を得ていきます。

有名な人物としては「堂のひや」、「よなふしのひや」等が挙げられます。

 

この時代は中国との貿易もさらに盛んになり、按司たちはますます栄華を極めるかと思われました。

しかし、沖縄本島を統一した尚氏によって侵略を受け、独立国家としての久米島も終焉を迎えることとなります。

 

按司の時代について、詳しくは以下から

観光する前に知っておきたい!詳解久米島の歴史:按司の到来

2017.01.13

観光する前に知っておきたい!詳解久米島の歴史:按司時代の終焉

2017.01.16

琉球王朝時代

按司が討伐されてから、久米島も琉球王朝の政治体制に組み込まれることになりました。

ここから、中国との貿易も自由に行えなくなり、貿易の国家から、農業・漁業を基盤とした国家に移り変わっていきます。

琉球王朝の聞得大君をトップとする三十三神女のヒエラルキーに久米島の神女「君南風(チンベー)」も組み込まれ、祭事集団の組織化が進みます。

これ以降、琉球王府による重税に苦しむことになりますが、そんな中でも他の離島よりは自由な自治を認められていたようです。

また、他の離島よりも比較的豊かだったようです。

その豊かさは民謡にも表れていると言います。

厳しい重税に苦しんだ八重山の地域には、その苦しさを紛らわせるために民謡が発達しました。

おかげで今でも多くの民謡が残っています。

しかし、比較的豊かだった久米島にはあまり民謡は残っていません。

これを知ったとき、人間は苦しいときもよく生きる術を持っているんだなと感動しました。

 

また、この時代に『間切(まぎり)』と呼ばれるお役所も出来ました。

この役所には琉球王朝から役人が派遣され、監督指導にあたったとのことです。

 

 

税を納めるために各地で大規模な水利施設の開発が進み、稲作がより盛んになったようです。

しかし、18世紀ごろに流行った疫病の影響で久米島の人口は大いに減少してしまいます。

その時の名残が、ヤジヤーガマに今も残っている大量の人骨だと言われています。

琉球王朝時代について詳しくは以下から

(※Coming soon)

明治大正時代

明治政府の廃藩置県の断行により、琉球王朝は沖縄県となり、

36代、690年続いた琉球王国は終焉を迎えることとなります。

このときに聞得大君を最高神官とする神女のヒエラルキーも崩壊しますが、

久米島の君南風は琉球王朝が滅びた後も機能を果たし続け現在に至っています。

 

1903年、徳之島にほど近い硫黄鳥島が噴火を起こします。

多くの地域が硫黄鳥島の住民の移住に難色を示す中、自給自足が出来る豊かな久米島は受け入れを許可します。

そのときに移住してきた人が住み始めたのが、現在の『鳥島集落』です。

「外部の人を受け入れる」そんな島民性は今でも残っていて、福島の子どもたちを保養するための養護施設『球美の里』は既に60回以上、人数にして2000人以上の子どもたちを見守ってきました。

明治大正時代について詳しくは以下から

(※Coming soon)

まとめ~現在の久米島

島の歴史をざっと振り返ってみました。

少しでも歴史的背景を知ると各城跡を見る目も変わって来ますよ。

 

現在の久米島は年間100人の人口減少に悩む、少子高齢化社会。

この未曽有の危機に対する解決策を見出していくには、久米島島民の方々が無意識のうちに共有している『島民性』を知る必要があると思います。

 

それを紐解くためには、歴史を欠かすことは出来ません。

 

島の思想を知ることで、島の価値観が見えてきます。

島の選択を知ることで、島の生存戦略がきっと見えてくるはずです。

 

 

 

今回はざっと振り返りました。

ディープに振り返りたい方は各記事を参考にしていただければと思います。

 

それでは素敵なKumejimaLifeを♪

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