観光する前に知っておきたい!詳解久米島の歴史:按司の到来

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島暮らしのおかもってぃ
地域おこし協力隊。東京生まれ東京育ちのシティボーイ。マニアック過ぎて役に立たない久米島情報を発信中!
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こんにちは!

島暮らしのおかもってぃです。

 

島の歴史を知ってから観光した方が絶対面白い!

去年1年間いろいろ調べてみて思ったことです。

というわけでこのブログでも島の歴史を紹介していきます。

今日は按司の時代の話。

●忙しい人のために10秒で読めるまとめ

・14世紀ごろ、沖縄本島での覇権争いに敗れた按司が久米島に到来し、島を支配し始める。

・伊敷索按司は琉球王府に討伐されるまでの30年間、一族で島を支配する。

・外来の侵略者に対して、在来のリーダー、ノロやひやは積極的に協力していた。

そもそも按司って?

按司とは、12世紀ごろに琉球で栄えた城(ぐすく)を拠点とする豪族たちのことです(正確には按司は称号の一種)。

日本本土で、朝廷や貴族に変わって武士が力を持ち始めたように

琉球においても武力を背景に、按司たちはその影響力を高めていきました。

今帰仁城跡跡(出典:沖縄観光タクシー シーサーTAXI)

久米島への按司の到来

14世紀ごろ、琉球本島では北山、中山、南山に分かれて按司たちが対立し合う三山分立時代を迎えます。

中山の支配下にあった佐敷按司、尚巴志が中山を統一、

北山を攻め滅ぼし、最後に南山も攻略。

こうして1429年に琉球王朝を統一します。

約90年にわたる三山分立時代はこうして幕を閉じます。

 

久米島の按司たちはおそらくこの戦乱から逃れてきた者たちだと考えられています。

これらの按司はどこから来たかというには
恐らく沖縄本島から来たものではなかろうか、
丁度、この80年は尚巴志の三山統一の末期から
尚真王の三十四年ごろにまでにあたるから、南山の遺臣か、
あるいは尚巴志王統の遺臣どもではあるまいかと私は考えている。
(仲原善忠『久米島史話』より)

そして、最初に按司が到来してから、約80年間、

久米島では按司により支配が続きます。

初期の按司たち

久米島に現れた最初の按司は、字島尻辺りにある与那嶺城(ユナニグスク)を拠点とする按司で

その後、銭田の塩原城(スハラグスク)、具志川城と続いたと言われています。

ユナニ按司に関してはほとんど記録が残っていないのですが、

塩原城の按司、具志川城のまだふつ按司に関しては少々記録が残っています。

塩原の按司、取らぬ計算
塩原の按司はあるとき、家来をつれて海岸に出たら、
大きなジュゴンが海岸に寝ていました。

按司は大いに喜び、この頭は誰に、
胴体はどこどこにあげようという送り先を
家来に命令し得意になっていると、

バタンと音をさせて、
ジュゴンは海に飛び込んでしまった。
(仲原善忠『久米島史話』より)

現在で言う捕らぬ狸の皮算用ですね。

地元のご高齢の方はよく、『塩原の按司の取らぬ計算』といって、この言葉を使っていたそうです。

塩原按司に関するエピソードはこれだけしか残っていないそうです。

おそらく大した勢力もなかったのではないかと、善忠先生は書いています。

具志川城を築いた『まだふつ按司』に関してはもう少し記録が残っています。

まだふつ按司を謳ったおもろ
具志川の、まだまうちはげらへて、よくげらへて、
まさりゆわるせたかご
又 かなふくの、またうちはげらへて、
又 たうのふね、せにこがねもちよせるぐすく
又、やまとふね、せにこがねもちよせるぐすく

おもろさうし 二十一の一一四

具志川城を立派に築いた、
勝れたる按司、
唐、やまとの船がやって来て、
銭、黄金をもちよせる城

(仲原善忠『久米島史話』より)

まだふつ按司の建てた具志川城は優れた交易の地として使われていたようです。

このまだふつ按司は後に、久米島全土を支配する伊敷索按司の次男、

まにくたる按司によって滅ぼされ、城を乗っ取られてしまいました。

一族で島を支配、伊敷索一族

伊敷索按司は一族、三男二女で島を支配しました。

父親の伊敷索按司は、現在の儀間、久米島博物館があるところに、伊敷索城を建設します。

長男は中城(今の宇江城)、次男は具志川城、三男は登武那覇城に城を築き、

住民たちから租税を取り立て支配を始めます。

この伊敷索一族に関しては、伝説やおもろさうしがたくさん残っているのですが、ここでは紹介しきれないのでまた後日。

 

この伊敷索按司の三男、がさし若ちゃらは

とにかく、イケメンで、人柄もよく、島民からとても慕われていたそうです。

 

現在、久米島の中高生が作り上げる、『現代版組踊』の主人公にもなっています。

 

栄華を誇った伊敷索按司ですが、尚氏の討伐により、約30年程度で滅んでしましいます。

こうして久米島における按司支配は終わりを迎えたのでした。

外来の為政者にどう対応したのか?

久米島島民は、突然やってきて租税まで取り立て始めた彼らにどう対応したのでしょうか?

そのことがよく分かるエピソードがたくさんあります。

具志川城建設のエピソード
あるとき、仲地の人、仲地にやと云う者、
船の梶を作ろうと思って、
その時お嶽であった具志川城のところに行き、
帰りがけに南の方、青名崎を通ると、
まだふつ按司が城を建てようとして石垣を積んでいる。

仲地にやはそばに参り

「ここははことさら地形が悪く、良い城は出来ませぬ。
北の方に行くと山があり南と北西は断崖で東の方は少し開いて、
門も広く長く造れる良い地形になっており、
城を建てには最上の地と思います」

と申し上げたので、それではど仲地をつれてその土地を検分し、
非常に喜び、ここに城を立てて住んだ。
(仲原善忠『久米島史話』より)

そして、この後、仲地にやはまだふつ按司の側近として使えることになります。

中城建設のエピソード
長男の中城按司は、始め大城山に城を立てようとしたが、
堂村(現在の宇江城当たり)のノロ「オトチコバラ」という者、
自分がこもっていた中城のお嶽から出て来て

「ここよりも中城御嶽がよろしゅう御座います」

と勧めたので、按司もそこに行って弓を射てよく試み、
なるほどと賛成し、御嶽の神をどこかに移そうとしたところ・・・
(仲原善忠『久米島史話より』)

神々と交信する御嶽の場所を差し出し、城を築くように助言するノロ。

このように、すでに久米島に存在していた、神女である『ノロ』や地区のリーダーである『ひや』

は彼らに付き従い、協力するという選択を取りました。

時勢には逆らわず、したたかに生きる、

そんな島民性がこれらのエピソードから読み取れる気がします。

 

もちろん、心から従っていたわけではないのですが・・・

それについてはまた後日紹介したいと思います。

 

以上、按司の到来について書いてみました。

今度は按司の衰退に関して、『堂のひや』や『よなふしのひや』の話を交えて、

もう少し詳しく書こうと思います。

 

最後までお読み頂きありがとうございました!

では素敵なKumejimaLifeを!

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