観光する前に知っておきたい!詳解久米島の歴史:按司時代の終焉

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島暮らしのおかもってぃ
地域おこし協力隊。東京生まれ東京育ちのシティボーイ。マニアック過ぎて役に立たない久米島情報を発信中!
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こんにちは!

島暮らしのおかもってぃです。

歴史を知ってから観光した方が絶対に面白い!

久米島についていろいろと調べてみて思ったことです。

そんなわけで皆さんの、久米島旅行が少しでも良いものになるように、

このブログでも島の歴史について紹介していきます。

今日は15世紀に久米島を支配した按司、伊敷索(ちなは)一族の衰退のお話。

●忙しい人のために10秒で読めるまとめ

・琉球を統一した尚氏によって、伊敷索一族は滅ぼされる。

・堅牢極めた城が陥落した原因は、臣下の裏切りだった。

・久米島島民は、天命をくみ取り流れに逆らわない生き方を選択した。

尚氏の琉球全土統一

1429年に三山を統一した尚氏。

第二尚氏の3代目にあたる尚真王は琉球全土を支配下におさめようとします。

1500年、八重山で勢力を誇っていたオヤケアカハチを討伐し

さらに1522年、与那国も征服し、先島諸島全土を支配。

中央集権の国家を築き上げます。

 

もちろん久米島も例外ではなく、琉球王府による征服を受けることになります。

当時久米島を支配していたのは、一族で栄華を誇った伊敷索一族、

父は伊敷索城、長男は中城(宇江城)、次男は具志川城、三男は登武那覇城を築き、住民からは租税を取り立てていました(具志川城は別の按司によって築かれた)。

それぞれの城は強固で、首里軍は苦戦を知られることになるのですが、裏切り、身内争いにより敢え無く破れ、わずか30年余りで彼らの時代は終焉を迎えました。

伊敷索按司の長男、中城(宇江城)の陥落

久米島の城は作りが頑強で首里王府もなかなか攻めることが出来なかったらしいのですが、家来の復讐に逢い、敢え無く敗れることとなります。

●火攻めで陥落した中城
具志堅三兄弟、もともと按司の家来であったが
むほんを企てているとの讒言に逢い、
伊平屋に逃げていたのが、
このことを聞いて首里の王に願い出て征伐軍と一緒にやって来た。

三兄弟は予て城の様子を知っているから、
五寸釘を三本と火を箱に入れて持っていて、
長男が城の西側に廻り、釘を差し込んで
乗り越え城に火を付けたので忽ち火災をおこし、
按司は面目ないと思い子どもを堂のひやにたのみ、
自分はしらし嶽に入り行方不明になってしまった。
(仲原善忠『久米島史話』より)

この具志堅三兄弟とは誰なのか?

『久米島の按司物語』という本の中に解説がありました。

●具志堅三兄弟について
城の石垣を立派に積み上げた石細工は
「テーヤントゥルー」と呼ばれた三兄弟であったそうです。

テーヤントゥルーは「具志堅三兄弟」とも呼んでおり、
仲里村にある登武那覇山の西方の平良村出身と伝えられていますが、
(略)
(『久米島の按司物語』より)

もともと久米島の出身で、中城建設の際に尽力したが、

謀反をかけられ伊平屋の方に逃れていた具志堅三兄弟の復讐により

堅牢極めた中城はあっけなく落ちてしまうのでした。

伊敷索按司の次男、具志川城の陥落

元は御嶽だったところに建てられた具志川城。

この城もその地形的優位性から首里軍は苦戦を強いられます。

●三方絶壁、強固な具志川城
具志川城は三方絶壁となり、自然の要害としては久米島第一である。

海崖を控え、いざという場合は逃亡するにも都合よく、
伊敷索城とやや似たところがあり中城のごとき偉観はないが
城建てにはまず手頃のところである。
(仲原善忠『久米島史話』より)

しかし、この城も具志川城主、まにくたる按司に仕えた「よなふしのひや」の裏切りにより陥落してしまうことになるのです。

●よなふしのひや
具志川按司の乳父「よなふしのひや」というものあり

「お運の尽きた主人をたよっていても仕方がない」

と首里軍に内通し、ひそかに城を出て大将の前に行き

「この城は水止めしなければなかなか落城いたしませぬ。
場内に通う水道をふさげば按司はきっと井口に出て参ります。
そのとき私が門の石垣の上から大石を投げ落とし、
按司を打ち殺します」と申し出た。

大将は喜び「然らばたのむ」と約束、
水口をふさいで待っていると果たして按司が見回りに出て来たので、
隠れていたよなふしのひやは大石を投げ下ろし按司の兜を打ち砕いた。
(仲原善忠『久米島史話』より)

よなふしのひやによる暗殺は失敗するのですが、

もはやこれまでと悟った按司は妻子だけは逃がそうと試みます。

結局、追い詰められた母子は自害し、按司と長男だけは行方不明になりました。

長男は生き残っていたことが伝説にも仲里旧記にも残っているです。

悲劇のヒーローがさし若ちゃら

伊敷索按司の三男、がさし若ちゃらはイケメンで、性格もよく島民からも慕われていたと言います。

●若ちゃらを歌ったおもろ
かさすちゃらは
だじりよ 鳴響め(とよめ)
見れば 水廻て
又 真物ちゃらは
又 なごの浜に
又 なごのひちゃに
又 大和ぎやめ
だじりよ 鳴響め

がさし若ちゃらは
ますます鳴り響け
水走るような笑顔になって
立派な若ちゃらは
なごの浜・なごの地に
さらに大和までも
ますます鳴り響け
(おもろさうし 十一の三三)

他にもがさし若ちゃらを歌ったおもろが8つ確認されています。

しかし、その人気を僻んだのか、謀反を企てたという疑いをかけられ、

実の父、伊敷索按司は彼を征伐しようとします。

●伊敷索按司の出兵
伊敷索按司は大勢の臣下をつれ、トンナハの梶山門に攻めて来た。

若ちゃらは思いもよらぬ敵が寄せて来たので、
仕方なく城を出ようとして両軍衝突。

しかし若ちゃらは、武勇に優れた人だから、
伊敷索勢を片っぱしからなぎ倒してしまったので、
父按司は一人になり逃げてテエ原の「たてまし」という田に飛び込み、
楯を以て顔をおおて隠れていた。

逃げる敵を追い散らしここに来て、
父按司を発見した若ちゃらは急いで父の手を取り引き起こし
「御父様こそ悪いことを考えているが、私は何も悪心はありませんから」と安心させ、
父のからだの泥などを洗い落とし、父の伊敷索の城に送り返した。
(仲原善忠『久米島史話』より)

こうして、一度は父を追い返したがさし若ちゃらでしたが、

再び父から襲撃を受け、追い詰められた結果自害してしまいます。

 

そして、その短い生涯を終えました。

22、23歳程度だったと言われています。

 

その後結局、伊敷索按司も首里王府によって滅ぼされてしまいます。

島の子どもたちによる『現代版組踊』では、

父、伊敷索按司は首里王府の圧力を受け、息子を死に追いやったと描かれています。

あるいはそんなこともあったのかもしれませんね。

 

こうして、謀反に次ぐ謀反、身内間の争いにより、

伊敷索一族の繁栄は30年という短い時間で終わるのでした。

易姓革命の思想

侵略してきた按司に協力しながらも、その命運が尽きたと思われると敵方につく、

久米島の人々はこうしてしたたかに生き抜いてきました。

ここには易姓革命の思想があると、佐藤勝氏は言います。
(易姓革命とは・・・天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命(天命を革める)が起きるとされた。孟子の儒教から来た理論。(wikipediaより))

久米島における革命思想は、
住民が積極的に新たな政治体制を構築することではない。

天命によって、外部からどの支配者が現れるかを正確に見極めて、
強いものに寄り添っていこうとする
小さな島に生まれた人々の生き残り戦略なのである。
(佐藤勝『沖縄・久米島から日本国家を考える』より)

よなふしのひやは主君の最後を悟り、首里軍に自ら協力を申し出ました。

また、具志川周辺の住民も、すでに首里王府に寝返っていたらしいのです。

このように、主君への義を重んじるのではなく、天命を察し、久米島という共同体の利益を守るために行動すること。

それが、久米島島民が代々取ってきた生存戦略でした。

 

この思想が最もうかがえる人物に中城按司に仕えた『堂のひや』というものがいます。

堂のひやという人物

堂のひやは、

『唐に渡って養蚕技術を持ってきた』

『太陽石を使って日の出の位置を計測した』などなど

数々の功績を残した人と言われています。

(二人いるのではないかとか、唐には行っていないんじゃないかなど諸説ありますが・・・)

 

彼はもともと、堂地区の共同体のリーダーでした。

いわば、土着のエリートにあたります。

按司の到来の際には、中城の建設場所について進言させたり、

その後、按司に変わって住民から租税を取り立てる役割を担うなど、積極的に外来の支配者に協力します。

 

その姿勢は按司からも高く評価を得ていたようで、

中城が陥落する際に、中城按司は自分の長男を堂のひやに預けるほどでした。

 

しかし、天命を察した堂のひやは次の行動を取ります。

堂のひやはこの子を育てていたが後に野心を起こし、
幼主の髪を結ぶふりをしてこれを殺して病死ととなえ、
首里城に行っていろいろ頼み、自分を中城主にして貰った。
(仲原善忠『久米島史話』より)

自分の主君である子を自ら手にかけ殺害し、自分が王になりたいと首里王府に嘆願しました。

しかし、慢心し、私欲に走った堂のひやも、天が命じる支配者ではなかったようです。

さて、城主になった堂のひやは得意になって真謝泊に帰り、
迎えの人々を従え宇江城に帰ったが、主人の殺した罪であったか。
大門のところで馬から落ち、はいていた剣に刺しぬかれて死んだということである。(同上)

最終的には失敗してしまいましたが、地域共同体の利益を維持するために、

天命をくみ取りその流れに逆らわないで生きる。

これが久米島を守ってきたエリートが取った行動だったんです。

 

ただ、もともと按司は外来の侵略者。

神聖な御嶽に城を築き、さらには租税すら取り立てました。

そんな彼らに対して、心から忠誠心を誓えるわけもありません。

彼らの行動は、『久米島』という共同体を維持するために

やむを得なかったことことなのだったのだと思います。

寛容の島、受け入れの島

敗れた按司たちはその後どうなったのか?

 

久米島には寛容の原理がある、と佐藤勝氏はいいました。

按司の中には、住民の中に入って生き延びていくものもいたそうです。

久米島島民はそれを拒絶しませんでした。

急に外からやってきて、租税を納めろと、

そんな強情な過去の支配者に対して復讐することを、久米島島民は選択しません。

 

弱体化してしまったものには手を差し伸べる、そんな島民性が読み取れます。

その伝統は、硫黄鳥島からの移民受け入れや、

NPO法人球美の里の活動などに今も生きているのではないかと思います。

 

歴史を紐解くと、その土地の価値観が見えてきます。

その価値観を知り、現在に、未来に生かしていくことが

いろいろな課題に直面する私たちに、求められているのではないでしょうか。

 

 

長くなってしまいましたが、以上、『詳解久米島の歴史:按司の衰退』お届けしました。

では素敵なKumejimaLifeを!

【参考文献】
・仲原善忠『久米島史話』
・佐藤勝『沖縄・久米島から日本国家を読み解く』

※まだまだ浅学なものが書いております。
記述に誤りがありましたら、お伝えいただければ幸いです。

4 件のコメント

  • すばらしい!毎エントリ、楽しみにしてます^^
    若茶良、組踊では伊敷索按司が首里王府の圧力を受けたことになってるんですね。面白い・・。
    この間読んだ本だと、君南風が「若茶良は久米島だけでなく琉球すべてを治める按司になる」と予言したのは、実は首里の命を受けていて、伊敷索一族に内紛を起こして久米島を首里の支配下に置くためだったのではないか、という説が載ってました。また、君南風側も、首里の力を借りて、伊敷索一族を追い出したかったのではないか、と。
    今となっては何が真実か分からないとこがまた、ロマンありますね^^

    • 岡村さん、ありがとうございます!
      君南風が首里の命を受けてというのは面白いですね!
      その本読んでみたいです。

      君南風は、琉球王府の統治下においても、それなりの地位を維持し続けます。
      そういうことを考えると、そんなやり取りがあってもおかしくはない気がしますね。
      面白い!

      • 「琉球歴史の謎とロマン その4 女性ものがたり」って本の、君南風の章です。君南風ファンなので笑。

        若茶良の一件は何年のことか確信がないんですが、↑の本だと1507年らしき表現があり、1500年のオヤケアカハチの一件の後なんですよね。君南風は首里王府側についていた、っていうのは確かにそうなのかも(妄想。

        • なるほど。
          時系列で考えてもますます正しそうな仮説ですね。

          真実はいかにせよ、
          妄想することがたまらなく楽しいですね・・・笑

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