最強の城はどれだ!?久米島の城 No.1決定戦!!!

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こんにちは!

島暮らしのおかもってぃです。

 

14世紀~15世紀にかけて、約80年間、久米島を支配した按司たち。

彼らはその武力をもって島を治め、支配地には石を積み上げて立派な城(ぐすく)を築き、その権力を示しました。

最終的に、琉球王朝の尚真王に滅ぼされ按司の時代は終焉を迎えますが、久米島には現在も彼らの史跡が残っています。

最も有名なのは伊敷索(ちなは)一族が築いた城ですが、実は久米島には他にも15か所以上の城があると言われています。

 

さて、彼らが築いた城の中で最も堅牢堅固な城はどれなのか?

本日は各城の防御力を検証していきます!

題して

『最強の城はどれだ?久米島の城 No.1決定戦!!!』

評価基準

評価基準は3つ、『立地』、『防御戦略』、『その他』です。

各5点、合計点数15点で競っていきたいと思います。

立地

標高、周辺の地形の特徴など、自然的な要因をいかにうまく利用しているかを評価していきます。

防御戦略

石垣の厚さ、敵が攻めて来た時の防御方法など、いかに戦略的に築城しているのかを評価します。

その他

その他、リーダーのマネジメント力、防御実績など、上記の2点からでは評価しきれないことを加味していきたいと思います。

 

では行きますよ~。

最初はこいつだ!

エントリーNo.1『塩原城』

塩原城(すはらぐすく)

どこやそれっ!?ってツッコミを入れた方もいるかもしれません。

塩原城は字銭田の南方にある塩原ムイと呼ばれる台形状の山の頂上に位置している城です。

銭田森林公園からほど近いところに位置しており、『塩原城』と書かれた案内板もあるにはあるのですが、城までの通路は草ボーボー。

久米島一目立たない城、塩原城入り口。

ハブに遭遇する危険のある山道を5分ほど登るとたどり着くことが出来ます(誰か草刈って!笑)。

久米島一目立たない城、塩原城の城壁

今も残る石垣の跡

塩原城の按司に関しては、

『海岸にジュゴンが打ち上げられているのを見て、喜んで誰にどう分配するかを部下と話していたら、その間にジュゴンに逃げられてしまった』

という間抜けな伝承しか残っていません。

でも実は久米島の按司の草分け的な存在。

最初に久米島を訪れ築城した按司は、塩原城按司なのではないかとも言われています。

存在を知る人も少ない、マイナーな存在の塩原城。

これを機に、その名を世に知らしめることは出来るのでしょうか。

立地

塩原城の標高は124m

高さは申し分ないですね。

城の周囲は傾斜も大きく、登るのは容易ではないと思われます。

南面がややなだらか。

ここからの敵の侵入をどのように防ぐかが気になりますね。

ひとまず立地は高得点の4点

久米島一目立たない城、塩原城の縄張図

塩原城縄張図(1999年3月沖縄県教育庁文化課文化課紀要第15号より)

防御戦略

塩原城の防御戦略は実はかなり練りに練られています。

城を警備する際に、まず注意しなければならないことが入り口をどう守るか、ということ。

塩原城、その辺はぬかりありません。

城の西南方向に位置する入り口に通じる道は、くの字に屈折しており、城内と城外の落差がかなり激しくなっているそう。

久米島一目立たない城、塩原城の縄張図

入り口の守りはこれで盤石か。

北側の面はもともと急な地面だったのをさらに人為的に掘削し、急な斜面を作り出しているそうです(①)。

また、城の西側、②の位置に敵を監視、撃退をするための石垣を設置。

北側、西側の守りはかなり固いですね。

また東側にも、侵入者から城を守るための石垣が作られており、かなり神経質に城が作られたことが分かります。

久米島一目立たない城、塩原城の縄張図

ただ、斜面の比較的緩やかな南方の防御がやや手薄いのではないかと思いますね。

塩原城の南側は、現在の島尻地区。

たしかに侵入者が来るとしたら居住区のあった北、東側からだった可能性は高いですが、甘さが出てるな~。

僕ならこっそりと南側に回って一気に叩くと思います。

久米島一目立たない城、塩原城の縄張図

甘さが出たので防御戦略は3点

その他

塩原城は安山岩やその他の石をそのまま積み上げるという一番シンプルな方法で作られています。

でも、ここの石の大きさは0.5~1トン

当時の技術において、どのように巨石を頂上に運んだかは分かっていないそうです。

先述したように、間抜けな伝承しか残っていなかった塩原按司。

僕もそれしか知らなかったのですが、城の構造をみると「こいつなかなかやるやん!」って感じですね。

塩原按司への印象が大きく変わったので、その他のプラス加点として3点!

 

合計得点は、

10点!

さて、他の城はこの点数を超えていけるのでしょうか。

エントリーNo.2『宇江城』

宇江城(うえぐすく)。

伊敷索(ちなは)一族の長男の城。

島で一番高い宇江城岳の頂上、海抜約300mの場所に位置しています。

久米島の最高峰に位置する宇江城。防御も鉄壁!

優勝候補No.1ですね。

兄の威厳を見せることが出来るかどうか・・・

立地

なんといってもその高さ!

頂上部の標高は310mで島で一番です。

城の北側はわずか10~20m足らずで20m以上も降下する超急斜面。

南方も北側に比べれば穏やかですがそれでもかなり急な斜面になっています。

久米島の最高峰に位置する宇江城の縄張図

宇江城城縄張図(1999年3月沖縄県教育庁文化課文化課紀要第15号より)

正直、南からも、北からも侵入かなり厳しいでしょう。

島一番の高台からはどんな侵入者も丸見え。

こっそりと近づくことはほぼ不可能でしょう。

というわけで、立地は文句なしの5点満点!

防御戦略

この城に攻め入るルートは以下の2つ

  • 西側から尾根をたどる
  • 南側から斜面を登る
久米島の最高峰に位置する宇江城の縄張図

しかし、西側からの侵略を防ぐべく、城の西方(図ニ)に防御線が設けられています。

この防御線は城外に設けられた石垣で、ここから敵を撃退することが出来ます。

また、日常的に使われていた南側の①のルート。

このルートも敵方にとっては格好の侵入経路になるわけですが、先ほどのような防御線が幾重にも重なっているのが分かります(図IV)。

安易に攻め込もうものなら、確実にハチの巣にされますね。

まあ時代にマシンガンはないですが・・・

久米島の最高峰に位置する宇江城の縄張図

さらに、城内のイ、ロは石が積まれており、櫓の役割を果たしていたと言われます。

ただでさえ、見晴らしのよい立地に見張り台まで作られたらもう死角なし!

久米島の最高峰に位置する宇江城の縄張図

この抜け目なく練りに練られた城構造。

文句なしの5点ですね!

これはもはや宇江城の独走か。

その他

これほどの堅牢堅固を誇った宇江城。

首里軍もその攻略にかなり手こずったようです。

では、どのように落城したのでしょうか。

実は、城を作った石工に攻略されたんです。

 

宇江城を建設した者の中に、具志堅三兄弟(テーヤントールと呼ばれる)がいます。

体つきもたくましい3人だったようですが、ある日、謀反の疑いをかけられてしまいました。

困った彼らは、久米島から沖縄本島伊平屋に逃げます。

 

首里王府が久米島を征服すると聞いた彼らは、進んで協力を名乗り出たそうです。

故郷を奪われた恨みは強かったんですね。

彼らは城を作った張本人。

城の構造を熟知しています。

城の西側から釘を石垣に差し込み、城壁を乗り越え火を放ちました。

城はたちまち燃え盛り、そうして落城してしまったようです。

 

ことの発端はそもそも「謀反を企んでいる」という噂を鵜呑みにし、彼らを追い出した宇江城按司。

恨みの種を自らまいてしまったんです。

また、彼に仕えた島人『堂の比屋(どうのひや)』も最終的に按司を裏切ります。

城はとても立派だったようですが、リーダーとしての人格はいまひとつといったところでしょうか。

というわけでその他の加点は2点!

 

合計得点は

12点!

中々の高得点ですね。

エントリーNo.3『具志川城』

具志川城(ぐしかわぐすく)

久米島の北西、海沿いに位置する具志川城

伊敷索(ちなは)一族の次男、マニクタル按司の城ですが、実は築城者は別

伊敷索一族よりも前から久米島に来ていた、マダフツ按司という者が築城し治めていました。

でも、いい城だったので次男に奪われてしまったということです。

久米島の北側、ミーフガー近くの海岸に位置していて、当時貿易の拠点としても栄えた城。

さて、その実力はいかに?

立地

具志川城は、一方が海、三方が石灰岩の断崖に囲まれた高さ約30mの丘の上に築城された城です。

元々は別の場所に作ろうと計画していましたが、『仲地にや』という島民の勧めにより、この場所に立てられました。

島を知り尽くした地元の方の情報だけあって、やはりその守りは強固。

自然の地形を、上手く楯として使ってますね。

ですが、周囲の断崖が高すぎるのはやや難点。

南東方向、標高84mの真崎城からは城の内部が丸見え。

貿易の拠点として栄えた城なので海沿いに建築されたわけですが、その分防御力が落ちてしまったようです。

というわけで立地は3点!

久米島の北西、海沿いに位置する具志川城の縄張図

具志川城縄張図(1999年3月沖縄県教育庁文化課文化課紀要第15号より)

防御戦略

切り立った断崖に位置する具志川城。

敵が侵入できるとしたら南東、現在道路が通っている方向からになります。

しかし、そんなことはマニクタル按司だって百も承知。

図中のVは、現在駐車場になっていますが、もともとは石垣になっていて、城壁に近づく敵を撃退する場所でした。

中々攻め入るスキがなさそうですね。

しかし、貿易の拠点だったせいもあるのか、入り口がたくさんあります。

久米島の北西、海沿いに位置する具志川城の縄張図

図のA、B、②、③は全て入り口だったと言われています。

断崖方向の入り口をどう使っていたのかは分かりませんが、マニクタル按司、ちょっと多すぎませんか?

方向も様々なので防御は大変だったでしょう。

というわけで、防御戦略は3点!

その他

とはいえ、首里軍もこの城の攻略には手こずったようです。

そこに救いの手を差し伸べたのが、マニクタル按司の部下、『世直しの比屋』

按司に仕えていた世直しの比屋ですが、長男の宇江城の城が陥落したことを聞き、もはやこれまでと思ったのでしょう。

進んで首里軍に協力します。

 

彼が選んだ作戦は、『水源を断つこと』

具志川城は真壁崎から水路で水を引いていました。

実はこれが唯一の水源。

ここを断たれたマニクタル按司はその敗北を認めます。

 

さらに世直しの比屋は自ら按司を殺害しようとすらします。

徹底的に部下に裏切られたマニクタル按司、彼のリーダーシップも懸念が残りますね。

 

また、このマニクタル按司、首里軍に滅ぼされた伊敷索一族の中でも唯一生き残ったと言われています。

具志川城の主、マニクタル按司には妻と9歳と2歳になる二人の子どもがいました。

いざ落城する、というときにマニクタル按司は、妻と2歳の次男を城外に逃がし、自身は9歳になる長男とともに自害することに決めます。

しかし、首里軍に追い詰められた妻と2歳の次男は結局自害してしまいました。

それに対し、自害をすると決意した按司と長男は生き残ったのではないかと言われているんです。

字具志川村にマニクタル按司の子孫と言われる家がいくつか存在していて、「智」の字を名前に用いているそうです。

按司の血筋が今も存在しているかもしれないとはワクワクしますね。

でも・・・

男として、武士としてどうなんだ?

生命を賭して戦った幕末の武士好きの私は思うわけなんですね。

まぁ僕自身は、「男らしさはかけらも無いけど女子力は高いよ」なんて言ってしまう武士の風上にも置けない女々しい野郎なのですが・・・

そんなわけで、その他の加点は1点!

自分の女々しさはオール棚上げで厳しく採点しました!

 

合計点は

7点!

う~ん、やはり武士たるもの、死を決したときには死を選んでほしかった・・・

エントリーNo.4『登武那覇城』

登武那覇(とんなは)城

久米島の悲劇のヒーロー、笠末若茶良(がさしわかちゃら)が治めた登武那覇城

伊敷索一族の三男、笠末若茶良(がさしわかちゃら)が治めた城。

悲劇のヒーローとして知られ、島民からの信望も厚かったという、笠末若茶良。

ソフト面はばっちりの為政者ですが、ハード面は果たしてどうだったんでしょうか?

立地

一般的に、城は山の頂上に立てられます。

防御の面から考えるとそうなりますよね。

でも、笠末若茶良の城、登武那覇城だけは何故か山の中腹にあるんです。

北方が険しい斜面に覆われているものの、山の上から侵略される危険があります。

南方も比較的なだらかな斜面なので、敵は容易に侵略してくるのではないでしょうか。

 

なぜ頂上に立てなかったのか、その理由はよく分かっていませんが、そんなわけで立地は2点!

久米島の悲劇のヒーロー、笠末若茶良(がさしわかちゃら)が治めた登武那覇城の縄張図

登武那覇城縄張図(1999年3月沖縄県教育庁文化課文化課紀要第15号より)

防御戦略

この登武那覇城、実はあまり調査がされていないため、城の入り口や構造など、ほとんど分かっていません。

なので評価が出来ません。

フェアーになるように、3点あげときましょう。

その他

そんなわけでまだ明らかになっていないことが多い、登武那覇城。

ですがこの城の主、笠末若茶良に関してはたくさんの歌が残っています。

イケメンで頭も良く、周辺の住民からも慕われていたと言われています。

 

なぜ、この按司が『悲劇のヒーロー』と呼ばれるのか。

それは、実の父に自害に追い込まれたという歴史があるからです。

 

ある日、按司たちが集まり、『きんまむん』という最上位の神様のお告げを授かったそうです。

そのきんまむんの神様から祝福を授かったのは、父でもなく、長男でも次男でもなく、三男の笠末若茶良でした。

それに対する妬みを買ったのか、久米島征服を狙う首里軍にそそのかされたのか、真偽のほどは定かではありませんが、父、伊敷索按司は息子を撃つことにしました。

 

しかし、武勇にも優れた若按司、笠末若茶良。

見事に父を追い返します。

田んぼに逃げ帰れていた父を見つけた笠末若茶良は、自分を撃とうとした父に手を差し伸べて

「私には何も悪心がないですから」と言って、父を伊敷索城に送り返したそうです。

も~イケメン!!!

結局、再び攻めて来た父に追い込まれ、自害をすることになってしまうのですが、その生き様は今なお、多くの人を魅了しています。。

その他の加点は5点!

人間性は文句なし!

 

はい!そんなわけでトータル

10点!

最後その人格で巻き返してきましたね。

さすがです。

エントリーNo.5『伊敷索城』

伊敷索(ちなは)城

最後を飾るのは、伊敷索一族の長、父の城です。

現在の博物館の横に建てられた城。

建設された場所はとても神聖なところらしく、はるかに時が流れた現在でも、伊敷索城の近くで重要な神事が行われています。

さて、父の父たる所以を見せることが出来るのでしょうか?

立地

西から東にかけては崖になっていて、その下には白瀬川が流れます。

こっちの方向からの侵入は不可能ですね。

一方の南から東にかけてはどうか。

久米島博物館に行ったことがある人は分かると思いますが、なだらかな坂道を登っていくと頂上にたどり着くことが出来ます。

これはなかなか防御が大変そう・・・

そんなわけで立地は2点!

一族で久米島を支配した伊敷索一族、その父の城、伊敷索城の縄張図

伊敷索城縄張図(1999年3月沖縄県教育庁文化課文化課紀要第15号より)

防御戦略

ですがもちろん、そんな侵入経路を放っておくわけはありません。

さすが父、ともいうべき様々な工夫がなされています。

南東から押し寄せてくる敵を撃退するために、周辺の土地との高低差が3mにもなる削平地を城壁の外を幅20~30mにもわたって作っています。

城壁の高さも3~4m近くあるため、下からは絶対に城の中が見えません。

一族で久米島を支配した伊敷索一族、その父の城、伊敷索城の縄張図

さらに、城の東端部には意図的に張り出した構造が見て取れます(図ニ)。

この場所からは矢を射ることも出来ますし、戦の指揮を取ることも可能だと言われています。

考えに考え作り込まれた城。

防御戦略は文句なしの5点ですね!

その他

先述したように、数々の防御策を張り巡らし、万全を期している伊敷索城ですが、標高の高い土地でもないですし、南東方向に広がるなだらかな傾斜は、やはり防御に向いているとは思えません。

それにも関わらずなぜこの場所に城を立てたのでしょうか。

防御だけで考えれば、やっぱり宇江城が一番ですからね。

 

実は伊敷索城の真下の白瀬川には、唐船池(トウシングムイ)と呼ばれる深みがあり、すぐ近くには兼城港があります。

城内には多数の貿易陶磁器が見つかっていることから、この城は海上貿易の拠点として栄えたのではないかと考えられています。

時代・場所は変わりますが江戸時代、住民の身分は士農工商で隔てられ、金を稼ぐ商人は蔑まれることもありました。

しかし、時代を大きく変えていった坂本龍馬は商人感覚に優れていたと言います。

この伊敷索按司は商人感覚もあわせもつ按司だったのかもしれません。

 

 

三男、笠末若茶良との確執などはありましたが、短い期間久米島を統一したのは紛れもない事実、その功績も踏まえ加点として4点、つけときましょう。

 

そんなわけで合計は

11点!

結果総評

いや~熱い戦いでしたね!

そんなわけで結果のまとめです。

1位:宇江城 12点

2位:伊敷索城 11点

3位:塩原城、登武那覇城 10点

最下位:具志川城 7点

まあ、分かっていると言えば分かっていることでしたが、やはり長男の宇江城強し!って感じでしたね。

防御力高すぎ!

テーヤントール兄弟はよく城を攻め落としたなと思います。

次男は男らしさを見せてくれたらもっと上位に食い込めたと思うのですが・・・来世に期待しましょう。

三男の笠末若茶良はやはり抜群の人格、容姿が高評価。

どんな組織においても、その組織の価値を決めるのは『そこにいる人』だと思うんですね。

そこを若いながらに捉えていた若按司はさすがです。

意外にも検討してくれたのが、伊敷索城と塩原城。

どちらも防御の仕方をかなり考えて作られているようで感動しました。

特に塩原城はほとんどの人が知らない城ですが、今回その価値を再発見した気持ちです。

またこのブログでも紹介出来たらな~と思っています。

 

以上、『最強の城はどれだ!?久米島の城 No.1決定戦』でした!

城好きで知られるロンドンブーツ1号2号の敦は、城を訪れるときにどうやってせめて、どうやって守るかということを想像して楽しむそうです。

城を訪れた際は、そのように遊んでみてもいいかもしれませんね。

按司の歴史についてより詳しく知りたい方は、以下を参照してみてください。

観光する前に知っておきたい!詳解久米島の歴史:按司の到来

2017.01.13

観光する前に知っておきたい!詳解久米島の歴史:按司時代の終焉

2017.01.16

それでは素敵なKumejimaLifeを♪

【参考文献】
1999年3月沖縄県教育庁文化課文化課紀要第15号 當眞嗣一『久米島のグスクについて』

2 件のコメント

  • 夜中、泡盛を飲みながら貴HPを見ております。久米島の城(グスク)をよく調べましたですね。感心。
    貴殿のライフスタイルもなかなか。
    登武那覇城跡探訪は私のライフワーク(趣味)のひとつです。
    ところで、登武那覇城跡行ったことありますか?

    • mtさん>返信が遅くなってしまい申し訳ありません>_< ありがとうございます! この記事は自分なりにかなり興奮して書いたのですが反響が全然なくて落ち込んだものでした!笑 そういっていただけると嬉しいです^ ^ 登武那覇城行ったことありますよ~。 山の中を1分ほど分け入るとあります!

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