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こんにちは!
島暮らしのおかもってぃです。
現在ここ久米島では、島に唯一の高校の活性化をはかるために、
『久米島高校魅力プロジェクト』という事業が行われています。
今日は教育に力を入れるこの島の起源をさかのぼって行きたいと思います。
・久米島に読み書きが普及し始めたのは1500年頃。
・琉球王府に組み込まれて以後、役人を目指す人向けの教育施設が出来始める。
・廃藩置県後、各村に小学校が設立され、戦後、ほぼ現在の姿に。
目次
学校設立以前の教育
読み書きの普及
久米島に読み書きが普及した時期は明らかにはなっていませんが、
具志川按司の愛妾と母が死亡した際に、棺にその名を刻んだという口碑が残っています。
したがって、具志川按司の時代の1500年ごろには読み書きが出来るものが久米島に存在していたようです。
また、久米法印という仏教徒が日本本土に渡り、真言密教を習い、久米島の真謝に観音堂を立てたという記録が仲里間切旧記に残っています。
この僧はたいそう学問があったのではないかと考えられます。
久米法印の生存年は明らかになってはいませんが、おそらく16世紀後半だったのではないかと言われています。
いずれにしても16世紀には、久米島に読み書きの文化が広まりつつあったようです。
役人向けの学問が発達する
琉球王府の統治下で、久米島には『間切』と呼ばれるお役所が、具志川と仲里に立てられました。
それに従い、学問が出来る人が奉公人として役所に勤め始め、それから学問をする人が増えていったのではないかと考えられています。
1713年には、久米島の人により『仲里旧記』も書かれました。
その頃には既に学問が広まっており、文章が上手い人がたくさんいたようです。
それから首里や那覇に村学校が出来てきた1800年ごろ、
久米島でも西銘と真謝に稽古所が設置されました。
当時の教科は、読書、算術、習字、作文など、お役所仕事に必要なことを習っていたようです。
今で言うと、日経とか大原、公務員の専門学校みたいな感じですかね。
ただ、一部中国の古典などを勉強する優秀な子もいたようです。
各間切に1つずつある稽古所で三字経とか二十四孝のような兵役な漢文手紙文・そろばん等を学ぶだけである。
これもしかし奉公人と言われる家の男子だけである。
(略)
その様にして二十歳くらいのときに試験を受けて文子(テクグ)になり目指(メザシ)・掟(ウチツ)とだんだん昇進するわけで、学問するのは役人になるためであった。
しかし中には四書五経のような相当難しい漢学をやった人もいたことはいたようだ。
※文子・目指・掟・・・当時の役人の階級
学校の設立
仲里地域まとめ

具志川地域まとめ

明治15年~西銘小学校・真謝小学校の設立
久米島に始めて小学校が出来たのは廃藩置県後の明治15年、1882年。
具志川は西銘に、仲里は真謝と儀間(分校)に小学校が設置されました。
真謝小学校は後の仲里小学校にあたる学校で、
明治13年に発令された改正教育令を下に
初等科6級(3年)、中等科3級(1.5年)という編成になっていました。
設立当初の就学率は約20%、
これは那覇地区とほぼ変わらず、宮古や八重山よりも高い割合。
向学心の強い島として、当時評判にもなったようです。
しかし、全国的に見ると決して高くない数値。
また、すべて男子で女子は一人もいなかったそうです。
明治22年~仲城簡易小学校の設立
両間切の間くらいに、仲城簡易小学校が設立されました。
比屋定や宇江城に住み生徒はここに通ったと言います。
※この小学校は4年後には閉校します。
明治28年~比屋定分校の設立
仲城簡易学校が閉鎖された2年後、比屋定地域に真謝小学校の分校が出来ます。
明治29年~久米島高等小学校設立
現在の久米島小学校の前身です。
明治20年に発布された教育則により、学校教育は義務教育の尋常科と高等科に分けられます。
高等科は尋常過程を経た、主にエリート、裕福な学生が通う学校でした。
久米島の小学校も、真謝尋常小学校、儀間尋常小学校、西銘尋常小学校と改名します。
そして、明治29年、儀間尋常小学校は久米島高等小学校となりました。
久米島唯一の高等小学校は、創立以来、多くの人材を輩出したそうです。
(※その後大正5年に各高等科は各尋常小学校に併設されることになりました)
明治35年~真謝小学校、西銘小学校移転
真謝尋常小学校は謝名堂に移転、仲里尋常小学校と改め、
西銘尋常小学校は山里に移転、具志川尋常小学校と改めました。
明治39年~比屋定尋常小学校の設立
比屋定・宇江城地域の学生は、明治28年に設立され比屋定にある分校に通っていましたが、
明治39年に、比屋定尋常小学校として正式に独立することになります。
これによって仲里地域に3つの小学校が出来ました。
戦後~現存する学校が出来る
戦時中、各小学校は『国民学校』と名を改められました。
そして戦後、学校の整備が進められ、
仲里地域には『美崎小学校』
具志川地域には『久米島高校(設立当初は糸満高校分校)』が新たに設立されます。
またこのとき、
仲里尋常高等小学校は『仲里小学校』と『仲里中学校』に
久米島尋常高等小学校は『久米島小学校』と『久米島中学校』に
具志川尋常高等小学校は『大岳小学校』と『清水小学校』と『具志川中学校』に分かれ、
ほぼ現在の姿になりました。
当時の様子は?
明治30年ごろ、当時小学生だったときの仲原善忠氏の様子が、
久米島史話には書かれています。
ここから当時の様子を振り返ってみたいと思います。
学校は真謝の旧番所で4教室あった。
私と一緒に女生徒が数人入ったが、この人たちが最初の女生徒です。
真謝小学校が設立したのは明治15年。
通学率も高くはありませんでしたが、女子生徒で通うものはほとんどいなかったそうです。
真謝小学校に初めて女子が入学したのが、設立15年後、明治30年でした。
久米島小学校には明治22年に女子生徒が2名入学しています。
西銘小学校には明治24年、女子生徒が24人入学しましたが、女性には学問が不要だという封建的な社会の見方が根強く、全員退学してしまったようです。
そもそもの根本は、琉球王府に女子教育の思想が無かったこと。
1800年頃、首里や那覇、及び各地に設置された学校に入学できるのは士族の男子のみでした。
その影響が強く、女性が学問をすることに対して非寛容的であったのだろうと思われます。
その後文部大臣が女子教育を奨励したことをきっかけに沖縄全体で女の子の就学者が増えていったらしいです。
毎日芋ベントウ(芋二つ三つを袋に入れて)を携えクバ笠を冠って通学した。
当時、お米は贅沢なものだったらしく、庶民のほとんどは芋を主食にしていました。
小学生のお弁当も芋。
今って恵まれてますね。
ちなみに、当時の上流階級に所属していた人たちは米を主食としていました。
しかし、その子どもは周囲から浮かないように、あえて芋をお弁当に持って行ったそうです。
学科は読本、算盤、作文、習字、修身それだけ、
唱歌は時々先生が那覇に行って教わってきて教えた。
主に日清戦争の軍歌であった。
(略)
しかし、新しく地理、歴史、算術、体操、2年目は農業が加わり・・・
軍靴のほとんどは子どもむけではなく、またレパートリーも少なかったため、飽きてしまう子どもたちも多かったんだとか。
義務教育である尋常小学校(当時はまだ義務ではなかった模様)の次の高等小学校にいたっては、教師の数が少なく、教えられる科目に限りがあったそうです。
夜は村々の夜学に行った。
四角なブリキランプをともし、そうめん箱を改造した机を前にして
約二時間ばかり勉強していたが時々高野先生が儀間から見廻りに来られる。
勉強と風紀取り締まり・・・
例えば鶏の喧嘩をさせるのは罰、学校欠席も罰・・・
もあり誠にいいものだったと今も考える。
私も学校では罰・・・大きなソロバンをかついで立たされたり、鞭でたたかれたり・・・
仲原氏は学校が終わってから夜も勉学に励んでいたようです。
仲原氏はこの後高等科に進み、本島の中学校にも進学しています(退学していますが)。
進学を目指す生徒は昼も夜も勉強していたのかもしれませんね。
体罰は当時こんな感じだったと言いますよね。
今で言えば訴訟ものですが・・・
まとめ
久米島の教育の歴史、学校設立の歴史を振り返ってみました。
学校が出来た当時は、そこでの勉強を『やまと学問』と呼び蔑む人もいたそうです。
小学校設立当初の就学率も20%ですからね。
今でこそ学校に通うことが当たり前になっていますが、それは実は当たり前じゃないんです。
過去、生きてきた人たちが残してくれた考え方の下、僕らは生きているだけなんです。
僕らはそこに感謝しつつ、謙虚に学び続けなければならないのだと思います。
【参考文献】
・仲原善忠 『久米島史話』
・仲里村誌
・西銘誌
・大岳小学校百周年記念誌
こんにちは 古い記事にコメント付けしてごめんなさい。
教職についていたおばぁ(仲里方面)から
昔は銭田の公民館の前に学校があって(教えるために)歩いて通っていたさぁ
と聞いたことがあります。
残念ながらそのおばぁは最近鬼籍に入られたので詳しいことは分からないのですが…
90歳くらいのおばぁだったので70年前からこちらの話でしょうか。
私のイメージでは公民館の前の広場で青空教室でもしていたのかな、と思っていました。
でもおかもってぃさんの記事の中にはそんな話は出てきませんね…
あれはおばぁの記憶違いか何かだったのかな…
しかし、実際のおじぃおばぁから話を聞くのは面白いですね。
久米島の未来について考えるのも大事ですが、過去も大切にしていきたいですね。
Mさん、コメントありがとうございます!
昭和50年3月に出版された仲里村誌に記述がありましたよ^ ^
“当初の移住者(明治12年頃)は主として那覇およびその近郊の人で、那覇系の人の中には村(むら)の学校所(青年層の有志者の夜学)の師匠に招聘される人々もいた。”
銭田は明治12年の廃藩置県後の移住者によって出来た土地ですが、そこで青年層向けに今でいう塾みたいなものが開かれていたみたいですね。
おばあさんはそこの学校に先生として通っていたのではないかと思います。
その建物が銭田公民館の近くにあったんでしょうね。
未来は、過去に立脚し、考えられないといけないと僕も思っています。
土地のアイデンティティがその歴史にはあるからです。
そのアイデンティティを無視して、とりあえずのゆるキャラとか、とりあえず外で上手くいってる施策を真似して、失敗した自治体は数えきれないと思います。
このブログでも、島のアイデンティティをつなぐ、広める、そんなお手伝いが出来たらと思っています。
長々と失礼いたしました。