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こんにちは!
だいぶご無沙汰しております。島ぐらしのおかもってぃです。
久しぶりに更新をしたと思ったらこんな報告ですみません。
今年度いっぱい、つまり2020年の3月で久米島を離れることになりました。この場を借りて正式に報告させていただきます。
2015年の3月末に引っ越してきて、約5年間、この島で過ごさせていただきました。島で過ごす中で、自分ように島外から島に来て、そして去っていく人たちを見てきました。中には、あんまり良い去り方をできなかった知人も知っています。
地域活性ってすごい流行っているから、いろんなメディアで他所の成功事例が取り上げられて、「そこと比べて久米島は・・・」みたいに思っちゃうことってけっこうあるんです。僕自身も、「もうちょっと頑張れないのかな?」って思う瞬間もぶっちゃけたくさんありました。
でも、そんなことは正直どうでもよくて、ただ、僕はこの土地が好きだし、ここで出会えた方々が本当に大好きです。5年前、本当に未熟で、ただ生き急いでいた自分を受け入れてくれたことを心から感謝しています。
本当にお世話になりました。
正直言ってクソ長い文章で、これっぽっちも面白くないかもしれません。。。
これまでを振り返りつつ、いろいろと書いてみたいと思います。
目次
久米島に来た理由
久米島に来る前は、理系の大学院で研究をしていたのですが、研究内容に意義を見出せなくなってしまい、2014年の9月ごろから、大学院を休学していました。来年度、何をするのか定まらず、正直言ってふらふらしているときに、たまたま『久米島の町営塾で働くことのできる理系人材を探している』という人に出会い、そのお仕事のご縁で、大学院を辞め久米島に来ることが決まりました(職場をブログで明かしたのは思えばこれが初めて)。

そんな風に言うと「よく来たね~!すごいね~!」と言われることがありますが、今から振り返れば単なる『逃げ』でしかありませんでした。教育系の仕事に興味はあったのですが、とにかく大学院には戻りたくなかった、という想いの方が強かったと思います。
根本にあったのは『自信の無さ』です。当時の自分は本当に生き急いでいて「この世に生を受けたからには、何かを成し遂げなければならない」という想いに駆り立てられていました。
これもさも大義なことを言っているようですが、正確に言えば、「この世に生を受けたからには何かを成し遂げなければならない。そうでなければ自分には価値も居場所もない。」という自尊心の低さの表れでしかありませんでした。
社会や世界のために生きたいと頭では思っていながら、内心は自分の存在価値を誰かに認めて欲しかっただけなんです。だからこそ、意義の見いだせなくなった研究を放り出し、自分を求めてくれる場所に飛びつきました。その場所がたまたま久米島だったんです。
住む場所を変えただけじゃ根本は何も変わらなかった
そんなわけで、逃げるようにして久米島に来たのですが、住む場所を変えただけでは、自分の根本の問題は何一つ解決されませんでした(当たり前・・・)
相変わらず、自分の存在意義を感じたくて、誰かに認めて欲しくて焦っていました。でも、正直、仕事もあまりうまく行っておらず、また、当時ルームシェアをしていた同僚との関係性も微妙で(今は本当に尊敬しています)、家でも職場でも心が落ち着かない日々をずっと過ごしていました。
正直言って、何度帰りたくなったか分かりません。「自分は何のためにこの島に来たんだろう?」と何度も何度も自問しました。でも、ここで逃げたらなんだか本当に腐ってしまうような気がしたので、ひたすら耐えていました。
転機は字比嘉のエイサー
そんな自分に訪れた転機の一つは、字比嘉の旧盆エイサーでした。

旧盆エイサーとは、毎年旧暦のお盆に、各字で行われる伝統行事です。久米島でも8か所くらいで、旧盆エイサーが行われています。1年目の自分は知り合いのつてで字比嘉のエイサーに参加することになりました。しかし、二つの大きな問題が、、、、、
家と職場から遠い
当時の自分は、字仲泊のファミリーマートのすぐ近くに住んでおり、職場も嘉手苅。また、自動車も同僚と3人でシェアしていたので、自由には使えず、比嘉までの移動はいつも自転車でした。それも別にいい自転車じゃなくて普通のシティバイク。。。
仕事を夜8時ごろに早抜けさせてもらい、職場から山城の坂を超え、20分くらいかけて比嘉に向かっていました。帰りももちろん自転車です。再び山城の坂を乗り越え、仲泊まで帰ってました。夜とはいえ、真夏なので汗だくです。本当に当時はよくやっていたと思います。
練習に参加したのが本番の1週間前
エイサーに出たい!と決心したのが遅かったので、練習に参加できたのは本番のわずか1週間前。リズム感には自信があったものの、独特な動き、リズム感で全くコツをつかめず、、、
「あのないちゃ~(本州から来た人)、こんな直前に来やがって」といろんな人が思っているのが、表情から容易に読み取れました(笑)
振り返れば、皆さんからの冷たい視線が痛かったです(笑)大切な伝統文化なので相応な対応だと思いますが、、、
認めてくれた地域の人
さすがに振りも覚えないまま本番に臨むわけにはいかなかったので、練習風景を動画で撮影し、家でひたすら自主練をしました。その結果、本番までに振りを覚え、本番も自信を持って踊ることが出来ました。
お酒も入りつつ、エイサーを踊っているときの高揚感は今でも強く覚えています。本当に楽しかった。
本番を終え、地域の方と打ち上げをしているときに「よく間に合わせたね~」と言ってもらえました。努力した自分を認めてくれたような感覚がして、それが本当にうれしかったです。
それから、僕の中で何かが変わりました。ずっと求めていた自分の存在価値・意義。それが満たされたんだと思います。

それ以来、自分の中での尖りが取れ、生きることがずっと楽になりました。生き急いでいた切迫感も収まり、存在意義を求めておびえることもなくなりました。地域の方々はそんなめんどくさいことは全く考えていなかったと思いますが(笑)
仕事の方も、自分の領分が分かってきてようやく自信を持てるようになってきました。あとは、恋愛さえ上手くいっていれば、進研ゼミばりの大成功だったのですが、残念ながらそこに関してはしばらく叶いませんでした(笑)
誰にとっても再現性のあることではないし、地域のコミュニティが肌に合わない人もいるとは思います。移住して4年が経った現在、僕も当初ほど真面目に参加できているわけではありません。それでも、地域で活動をする、ということが僕に大きな変化をもたらしてくれました。そのことに今でも感謝しています。
ちなみに当時の自分の苦労も考え、次の年に、エイサーのレッスン動画も作成し、YouTubeにアップしています(笑)エイサーのレッスン動画があるのは、沖縄広しといえど、たぶん字比嘉だけです。
ブログを始めたらとても楽しかった
そんな感じで、少しずつ島生活になじんでいった折に、昔から好きだったブログを始めました。2016年の9月くらいだったと思います。細々と続けて、「1年後くらいに有名になったら嬉しいな~」という感じで始めたのですが、「いいね!久米島」さんがシェアしてくれるようになり、思ったよりも早いペースで認知されるようになってきました。

久米島中のサーターアンダギーを食べつくしその食レポを書いたり、誰も読まない歴史、文化に関わる記事を書いたり、久米島美女図鑑を始めてみたり、バカみたいな記事もたくさん書きました。
半ば伝説となった(自分で言っちゃう)良い記事もいくつか生まれました。
このブログを書いていなければ出会えなかった人たちがたくさんいて、書いてみて本当に良かったと思っています。また、自分はやっぱりこんな風に自分を表現することがとても好きなんだな~ということにも気づくことが出来ました。
インタビューや取材に協力をしてくださった方々、本当にありがとうございました。
地域おこし協力隊としての任期が終了
そして、3年間、町営塾のスタッフとして、地域おこし協力隊の任期を満了しました。その後も私は島に残るという選択をしました。
ただ、ぶっちゃけ、そんなに大それた理由はありません。当時は「起業したい」なんてことを言ってはいましたが、まだまだ口だけで本気ではなかったですし。
なんとなくやり残した感があり、また、転職活動も行っていなかったので、島を出るという決断が出来なかった、というのが本音だと思います。来年どうしようかな~と正直言って困っていた矢先に、たまたま、自分の現職の前任の方が辞められるということで、そのままその仕事に就くことにしました。
ちなみにこの時も、「人に求められたから」という理由で仕事を選んでいます。自分がいつも取っている選択の仕方ってなかなか変えられないみたいです。
ブログを書けなくなった
協力隊を終えてから、ブログの更新をほとんどやらなくなりました。主な理由は3つあります。
1つ目は任期を終える直前の2~3月ごろに請け負ったライターの仕事でした。期日がかなり迫っていたため、短期間でたくさん取材をして、〆切にずっと追われながら記事を書いていました。その状況が本当にストレスフルで、記事を書くことが嫌になってしまいました。ライターとして生きていこうと思ったら至極普通のことだし、むしろ歩合も良かったから恵まれていた環境だったのは間違いないのですが、誰かに強制されて記事を書くということがすごく嫌で、それからめっきりブログから離れるようになりました。
2つ目は、自分のインタビュー力のなさに愕然としたから。美女図鑑という企画を行い、久米島の『美女』を紹介し続けるという連載を書いていたのですが、毎回、インタビューをした音声を振り返って思っていました。

「お前はなんでそんなに人の話を聞いていないんだ!」と。
インタビューの流れを考えながら話を聞いていると、その人の話をしっかり聞けていないことが多々あるんですよ。そういうことに度々気付くたびに、自分の聞く力のなさに愕然として、ブログを書くモチベーションが下がっていきました。
3つ目は、新しい仕事が想像以上に大変だったこと。島内でジョブチェンジをしたわけですが、新しい仕事が思いの他大変でした。これまでの仕事と関わらなければならない人も変わり、その中でいろんな人の思惑や考えがプロジェクトには染みついていて、その中でうまく立ち回ることができませんでした。自身の考えを伝えきることが出来なかった自分の弱さに非があることは間違いないのですが、精神的にもかなり落ち込み、ブログを書く気も失せてしまいました。
こうして、2018年度からインターネットやSNS上にも、そしてリアルな場所にも、ほとんど姿を見せずに引きこもり続ける日々を送っていました。
東京で働かないか?とある人に言われる
そんな風に精神的にかなり参っているときに、とある方から、「来年度(2019年度)から東京で働かないか?」という誘いをもらいました。興味のない分野ではなかったし、新しい取り組みだし、仕事から逃げて島から出たい気持ちもあったので、9割方、話を受ける方向性で考えていました。というかガチで1回OKしました。

でも、どうしても違和感がぬぐえず、最終的にお断りをしました。その辺の詳しいくだりが知りたい方は、以下のリンクよりご覧ください。
人生に猛烈に迷ったので、久米島のセラピストさんに相談したら想像以上の結果が帰って来た!
断った理由を一言で書くと、、、
『自分の意志で道を選んでみたかった』
ということでした。
なんだかすごくカッコいいことを言っているように聞こえますが、全く違います。情けないことに、僕は今まで自分の意志で進路に関わる大きな選択をしたことがほとんどありませんでした。
高校選びのときも、大学選びのときも、学力と何となくの理由で選び、久米島に来た時も、協力隊を終え島に残るときも、求められたからその選択を取りました。
『求めらている』=『自分の必要性が認められている場所』であり、僕の場合、それは『自身の価値を認められたい』という弱さの表れでしかありませんでした。自分に自信がないから、確実に自分を認めてくれるような組織を選んだ方が安心安全なわけです。でも、いい加減そこから離れないと、いつまで立っても自分の人生を生きられないような気がしました。

島の高校生を見てると、みんな悩みながらも自分の進路と真剣に向き合っていてすごいな~と思います。まして、久米島には、島外から島に来た『離島留学生』という高校生がたくさんいます。高校1年生から、久米島に来るなんて、、、よくそんな選択を取れるよな~と、彼らの決断を見ていて思います。
また、「その仕事に関心がある。意義を感じる」と口では言っておきながら、実は権威のある人の意見に従っていただけ、というのも、内心では気付いていました。
心の弱い自分が、その辺りの違和感をしっかり認めるまでには時間がかかりました。ただ、最終的には、自分と向き合い、決断をすることが出来たと思います。今の仕事ともしっかり向き合おうと決め、決して100点とは言えませんが、(40点くらいはつけてもいいんじゃないかと、汗)まあそれなりに頑張れたと思います。
「おおっ!!!じゃあ来年からは自分が本当に求めることをやるんだね!」と前向きに予想してくださったみなさまを秒で裏切ります。すみません。
大学院で物理学を修めることも考えていたのですが、結局心が向かずに一旦断念をしました。普通に転職活動をし、普通に転職しました。
詳しくは後述しますが、なんかびっくりするくらい、自分が求めるものが分からないんですよ。なので、一旦、普通に転職をするという選択を取りました。
2019年4月、結婚しました
そして、島中がびっくり!!!一人の時間が好きすぎて、ユタ公認の結婚できない男だった岡本が、なんと結婚してしまいました!!!
妻は2018年度にこっちに越してきたないちゃ~です。そうです。すみませんが来年度いっしょに島を出ることになります。
結婚しなくても幸せになれる時代ににも関わらず、、、正直よく結婚したな~と自分でも思うのですが、

どこかの誰かが、「結婚は勢いじゃないとできない」と言っていたのと、前述した、東京に行く行かないのときにかなり支えてもらい(当時はまだ籍を入れてませんでした)、それをきっかけに結婚を決めました。
価値観はかなり正反対なのですが、それゆえ、日々楽しく過ごしております。来年度はいっしょに海老名に住む予定なので、良ければ遊びに来てください。
来年度から何するの?
大学院に行くかも!みたいなことを以前書いたのですが、一旦来年度は地元の東京で普通に就職することになりました。引き続き、教育系の企業で働くことになっています。
何かを選択するときに、ワクワクを通り越した恐怖を感じることを選ぶことが感覚としては正しいことだと思っています。ただ、大学院に行くことを考えた時に正直言ってあんまり恐怖を感じなくて、九州大学で開かれていた学会も見に行ったんですけど、第1線で活躍する教授たちや学生の様子を見ても、なんだかそんなに心が躍らなかったんです。

これが本当にそんなに興味がないのか、単なる不感症で、本心を隠したい逃げの表れなのかはよく分かりません。いずれにしても、このまま進んでもなんか中途半端で終わりそうだなと思ったので、ひとまず普通に転職することにしました。
ちなみに、大学院を放り出して久米島に来てしまったので、今回の転職活動が実は初めての就職活動!かなりドキドキしたんですが、すごい楽しかったです(笑)
ちなみに、転職活動の手順です↓↓↓
- まずはしっかりキャリアの棚卸し、職務経歴書を書く
- リクナビエージェントに登録
- エージェントさんやリコメンド機能で関心の高い企業を選んでもらう
- 選んでもらった企業の中から、とりあえずひたすらエントリーしてみる(ちなみに59件エントリーしました)
- エントリーを通過した企業の1次・2次面接をSkypeで受ける(通過したのは10社くらいだった気がします)
- 最終面接は東京まで出向いて行う。複数社同時に面接を設定できるようエージェントさんに取り計らってもらう。
- 無事内定!
田舎から転職活動にトライしたい人がいたら相談に載れますよきっと(1回やっただけの分際ですが、、、)。少なくとも転職エージェントは利用してみる価値は大ありです。
この選択が最善であった自信はない、それでもこの島で過ごせてよかったと思う。
結果的に5年間というかなりの長い歳月を島で過ごすことになりました。この年月が果たして20代の自分にとって、最善だったのかどうかは正直言って自信がありません。
明確な結果を強く求められる環境でもなければ、自身の成長を促してくれるような組織的な環境があるわけでもありません。働き方もかなりホワイトでした。都市部に暮らしつつ、一生懸命に仕事をしている同年代を見て(もちろん、さぼっていた認識はありませんが)、「自分はこのまま、島でのんびり過ごしていていいのかな~」と感じることもしばしばありました。
今年から島で働いている子も、同じような感覚になることがあるらしい。とてもよく分かります。↓↓↓
島での生活は快適そのものだけどこの先の自分が不安になる。もっとしっかりちゃんとしないといけない!みたいな気持ちになれない。素の自分になりすぎて、今まで身に着けていったスキルが無くなっていく感覚におちいる。これはヤバいぞと思って手を動かしても全然続かない。たまらなく不安になる。つい最近までできてたことができなくなっているんじゃないか。さらに言えば、もし誰か自分を傷つけてくるような人に出会ったら、耐性が無さ過ぎて大いに傷ついてしまうかもしれない。
ドビーのようにベッドの上で飛び跳ねて壁に頭を打ち付けたくなる病気に年数回かかる(久米島町地域おこし協力隊:ろっくまんのnote)

“なのに人は青い海を見た瞬間「そんなに頑張らなくてもいいんじゃん?」となってしまう”
自身の転職活動を振り返ってみて思うことは、ファーストキャリアがここの場合、明確な結果や目的意識がなければ、島での活動を市場価値として認めてもらうことは難しい、ということです。最終的にご縁をいただくことは出来ましたが、自身の実績がどこまで評価されたのかはよく分かりません。『人柄重視、素直さが大切だ!』なんて言ったりしますが、素直で人当りも良い好青年ともっぱら評判である私でも、人柄を評価されることはありませんでした。そんな曖昧なもので採用をしてくれるのは、よっぽど人手不足の企業だけな気がします。
ただ、この島でいろんな経験をして、自身も5年前と比べてかなり変わったと思います。
そして、自分が島を去る時を想像すると、お世話になった方々の顔が浮かびます。そうしてなんだか温かくなって、いつも涙が止まらなくなるんです。なんかまあ、自分にとってはそれだけでいいのかな、という気がしています。
このブログはどうなるの???
正直とても悩んでいます。島にこれからも住まわれる方から、引き継ぎたいというありがたい声をいただいている一方、自身のアイデンティティがたくさん詰まったブログでもあるので、もう一つ、自分が運営しているブログと統合するのもありだし、引き続き、書き続けるのもありかとは思っています(更新さぼりまくっているお前が言うな、というツッコミはありがたく受け流します、笑)。
とりあえず、決まったら報告しますね~!
離島日は3月26日(木)の午前のフェリー

離島日は3月26日(木)に設定しました。きっとこの日は僕を見送るために数百人の方が港に押しかけ、兼城ターミナルはこれまでにない活況となることでしょう、、、ええ、はい。。。
いえ、素直に嬉しいので、良かったらお見送りに来てください^ ^
こんなことを事前に断っておく必要があるのかどうか分からないのですが、僕は荷物が増えてしまうことが好きではないため、もし、少し荷物になるようなプレゼントを考えてくださる方がいたら、早めに渡していただけると嬉しいです。
もしくは図々しくも、Amazonの欲しいものリストを載せてみます(笑)
最後に~人生は物語ではない
自分はこれまで、「自分が生まれてきた意味は何なのか?」と問い続けながら生きてきました。ただ、『人生の意味や使命といったものは、人間の作り出した虚構に過ぎない』とぶった切ったのは、サピエンス全史の著者、ユヴァル・ノア・ハラリ氏です。

人々は、「私は何者なのか?」と問い、物語を聞かされることを期待する。自分について真っ先に知っておく必要があるのは、あなたは物語ではない、ということだ。
ユヴァル・ノア・ハラリ『21 Lessons』より
人生は物語ではなく、人生に意味などありません。人間は過去からの必然性に生きる存在でもありません。
大切なのは、自分自身の熱狂や誰かや社会のためになりたいという手触りなんだと思っています。まだその感覚は自分にはないのですが、この島でその糸口を少しだけつかめた気がします。
その辺の感覚的なことは、現在連載として書きおろし中です。ご興味のある方はご覧いただけると嬉しいです。
【勝手に連載】僕は島で、人間になることを決意した
vol.1『まったく気持ちの良くないプロローグ』(第1話だけ有料)
vol.2『人生の行く末が見えなくなった大学時代』
vol.3『始まりは塵のような想いとちっぽけな勇気』
vol.4 準備中
そんなわけで、長々と書いた離島報告は以上とさせていただきます。最近また少しずつ、創作意欲が湧いてきたので、もしかしたらもう少しブログも更新できるかもしれません(あまり期待はしないでもらえるとありがたいですが)。
とにかく、これまで本当にお世話になりました!!!この島で出会えた人、ことに本当に感謝しています。これからも何かしらの形で、久米島と付き合っていきたいと思っているので、引き続きよろしくお願い致します。
それでは素敵なKumejimaLifeを♪
受け取りかたによってビミョーだけど、要するに、自分が好きなのね。でも、その人間臭さもひっくるめて、おかもってぃのこと注視してた人も結構いたと思うし(そのケはないが)今後の久米島の地域みらい留学に大きな爪痕になったと個人的には思う。少なくとも我が家は、感謝しかない。文章長いのは、想いの強さと理解する。面倒くさいと思うかもしれないけど、落ち着いたら顔合わせましょう笑。おごります。それでは、残り少ない久米島いちゃいちゃライフを!
こみ父さん>
自分のことは好きですね~。こみ父さんと同様に(笑)そっちの方が良いことが多い気もします。
こみ父さんのコメントの分量も想いの強さと理解させていただきます(笑)
岡本を迎える会の開催を楽しみにしています~!
また東京でお会いしましょう^ ^