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最近の流行りは『寒さに耐えること』、島暮らしのおかもってぃです。
島の歴史を知ることは楽しいよ!と常日頃からアピールしている私ですが、歴史っていうと何かお堅いイメージがあるのか・・・
歴史系ブログ記事のアクセス数も悪いわけなんですよ、笑
ですが、「自分も何で歴史好きになったんだろう?」と振り返ってみるとヒントがありました。
みなさんは、司馬遼太郎って好きですか?
竜馬がゆくとか、翔ぶがごとしとか、坂の上の雲とか、日本の歴史上の人物を題材にした小説を書いている方です。
子どものころ、僕は歴史好きではなかったのですが、彼の小説を読んでから歴史を知ることの面白さを感じるようになりました。
彼の作品にハマった要因は、『史上の人物への共感』だと思います。
小説なのである程度フィクションなのは間違いないのですが、司馬遼太郎さんの作品には歴史上の人物がありありと描かれ、彼らの思想、世界観に入り込んでしまうんですね。
そこで物語を描くことまでは出来ないですが、人にフォーカスを当てたら歴史を知ることももっと楽しくなるのでは???
そんなことを思ったので、個人的に好きな久米島の偉人ランキングを紹介します!
さて、気になるあの人は入っているのか!?
では5位から行ってみましょう。
5位 君南風(ちんべー)

君南風は、琉球王朝時代に組織化された神女の中で、三十三君(位の高い神女たちの総称)の1人にも数えられた偉大な神女。
久米島の各地にいる神女を統括する存在でした。
君南風は首里に生まれた三姉妹の末っ子だったと言われており、長女は首里に、二女は八重山に住んでいました。
君南風が有名になったのは、1500年の琉球王府による八重山討伐。
沖縄全土の支配をもくろんでいた琉球王府に最後までたてついた、八重山の豪族、オヤケアカハチを打ち倒すために琉球王府は軍を差し向けます。
その際に、君南風を連れて行きました。
君南風はその霊力によって、八重山の神々を先になびかせ、戦は大勝利。
この武勲を称えられ、君南風は褒美を授かるのです。
古来より、琉球では神女が集落の祭祀を司っていました。
いわゆる卑弥呼みたいな感じです。
しかし、かつての琉球を支えた各地の神女体制は、17世紀ごろから時代錯誤の迷信だと考えられるようになり次第に解体されていきます。
そうして、神女の風習はほとんど廃れてしまったのですが、久米島の君南風だけはなんと現在も残っているんです。
ただ後継者の問題もあり、いつもで続くかは分からないとのこと。
島の象徴的な存在なので続いて欲しいなとは思いますが・・・
4位 仲原善忠(なかはらぜんちゅう、1890~1964)
久米島が誇る民俗学者、仲原善忠先生。
おもろそうし(12~17世紀に書かれた当時の琉球の様子を歌った詩)の研究など、沖縄の歴史研究、久米島の歴史研究に偉大な功績を残しました。
僕が得た久米島の歴史系の知識は善忠先生の書籍を参考にしています。
そういえば、彼が調べた歴史的事実はたくさん読んだけれども、彼の生き方や生涯は全然知らないな~と、この記事を書いていて気付く・・・笑
彼が住んでいた家は、『仲原家』と呼ばれ、今は久米島島暮らしコンシェルジュのオフィスになっています。

仲原家、今は島ぐらしコンシェルジュのオフィスになってます
3位 堂のひや
堂のひやはかつての堂地区(今の宇江城や比屋定あたり)のリーダーだった人で、15世紀ごろに久米島に按司が侵略してきたときに暗躍した人物です。
航海技術や測量の優れ、久米島紬の発展にも大いに貢献した超インテリな存在でした。
彼が治めていた地区に、15世紀中頃、按司と呼ばれる武力を持った勢力が島外からやってきます。
外来の為政者に対して、集落のリーダーの堂のひやはどう対応したのか?
反抗するわけでもなく、こそこそ逃げるわけでもなく、城建設の場所をアドバイスするなどして積極的に協力するんです。
そして、堂のひや自身は按司に登用され、住民から租税を取り立てるなど嫌われ役を担うことになり、按司からの信用を勝ち得ていきました。
その後、琉球王府が攻め入り、久米島で栄えた按司たちはわずか数十年で滅んでしまうのです。
最後の瞬間、按司は自分の子どもを堂のひやに預けます。
按司は死んでしまいましたが、堂のひやとその子供は生き残ったようです。
そして、琉球王府から「按司の子どもを次の村長にするように」とお達しがなされると、堂のひやは按司の子どもを殺し、王府には病気で死んだと嘘をついたのです。
そして自らが頭首になろうとして宇江城城に登ろうとしている最中、落馬して腰に差していた自らの剣に貫かれ死んでしまったそうです。
この話だけ聞くと、堂のひやは主君を裏切るひどい奴のように聞こえるのですが、僕は「共同体の存続を考えた偉大なリーダー」だったと思っています。
海に隔たれた孤島の久米島は、外来からの侵略者に備える必要がありませんでした。
そんな平和な島に武力を持ってやってきた按司たち。
彼らに逆っても敵うわけもなく、島という共同体の存続のためには彼らに与する以外の選択肢はなかったと思うんですね。
そんな彼らに忠誠心を持つことは不可能。
彼らの力が弱まったとなれば、そこに付き従う必要性は何もありませんでした。
最後は自分の欲が出てしまった感は否めないですが、島という共同体の存続を考え、その知性を持って島民を率いて生きた偉大なリーダーが堂のひやなのです。

堂のひやが季節を読むのに使っていた太陽石
2位 鈴嶺喜英(すずみねきえい)
個人的にとても好きな人。
あんまり有名ではないし、久米島出身の人でもありません。
1840年、久米島に派遣された琉球政府のお役人です。
このころの久米島は相次ぐ飢饉と疫病で人口が半分ほどになるほど、困窮を極めていました。
そんな危機の最中に久米島に派遣された鈴嶺喜英は島の惨状を知るや、琉球王府に請願し、さらには自身の私財をなげうって、島民に農具を買い与えました。
また堤防の修理などを週末返上で行い、島のために尽くしました。
任期が終わっても帰ろうとせず、島の方や琉球王府の役人に説得され、ようやく琉球本島に帰ったとのこと。
詳しい資料はほとんど残っていないのでこれくらいの情報しかないのですが、島の窮地を知り、島のために尽くした偉大な人だったんだと思います。
1位 吉浜智改(よしはまちかい、1885~1957)
はい!記念すべき第1位は、吉浜智改。
久米島の歴史上、カッコよさNo.1!
久米島の字西銘出身で、太平洋戦争中を生きた人。
吉浜智改は20歳のときに徴兵を受け、朝鮮に渡ります。
その後、風水や易学などを自ら学んでいった知識人。
彼が理想としたのはインドの革命家、ガンディーの非暴力・無抵抗主義。
ガンディーの思想は戦時中の彼の行動にも色濃く影響を与えます。
戦時中の久米島は駐留していた日本軍が島民に横暴を振るっていました。
老若男女を問わず、労務を強いり、一晩中働かせることもあったようです。
自分たちの食料を確保することもやっとの中、日本軍に食糧の提供を求められ続け、住民は疲弊する一方。
そんな中、当時農業会の会長をしていた吉浜智改は日本軍に屈することはありませんでした。
「金をよこせないのであれば、銃弾をぶち込むぞ」と日本軍の鹿山隊長に脅されたときも、決して臆することなく立ち向かいます。
「銃弾を送るなら送れ、日本刀が飛ぶなら飛べ、軍が島民と共に苦しみ、最後まで協力して闘い抜くと云うならともかくだが、島民を搾り、軍だけが米食肉食を続け、あげくは凶暴に出るなんて」、死すとも民衆のためかくの如き暴行には従わぬという決意が読めたのか、抜刀切り付けんばかりの彼の手は軍刀のつばを離れ、「覚えていれ」と陰険なセリフを残して無言のまま立ち去った。
(大田昌秀『久米島の「沖縄戦」』より)
また彼は、民俗の自存を何よりも大切にしていた人。
当時は捕虜になる辱めを受けるのであれば自害しろ、というのが主流の考え方でした。
そんな中、吉浜智改はとにかく生き残ることを島民に説き続けたのです。
沖縄の他離島ではガマの中での集団自決など、痛ましい悲劇が起きてしまっています。
軍に追い詰められながらも、久米島でそのような悲惨な事件が起きなかったのは、吉浜智改をはじめとした知性を備えたリーダーが、島民の心を支えていたからなのではないかと思うのです。
彼はその後、具志川村の村長になり、島の復興に務めるのでした。
もちろん『かっこいい』ではまとめきれない悲惨な時代だったことは間違いないと思います。
でも彼らのようなリーダーがいたことを僕らはきっと学ぶべきで、彼らの生き方から何かを得るべきなんだと思います。
まとめ
以上、勝手に順位付け、久米島の偉人ランキングベスト5でした!
興味を持った人がいたら、各リンクからもう少し深めてくれると嬉しいです。
それでは素敵なKumejimaLifeを♪
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