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こんにちは!
島暮らしのおかもってぃです。
島の歴史を知ってから観光した方が絶対面白い!
久米島に引っ越してきてから、いろいろ調べてみて感じたことです。
そんなわけで今日は、按司による討伐の前の時代、部落生活の時代についてお届けします。
・人口の増加に伴い、集落を形成し始める。久米島での集落の起こりは西銘。
・その土地に最初に住み着いた人を中心に、祭政一致の部落体制が築かれた。
部落の形成
人口が増えてくると次第に人々が集まって暮らす、『村』が出来始めます。
久米島での村の起こりは西銘が最初だと言われています。
久米島の始まりは恐らく具志川の西銘だと思う。
それから仲地・山里の部落・登武那覇の近くの上比嘉・上宇根・島尻の高いところ、
具志川城の前、宇江城の中腹及び堂・比屋定・嘉手苅の後ろから伊敷索の付近、ここらが古い部落でしょう。
部落の形成と同等には扱えませんが、久米島に神々が最初に降り立ったのも西銘集落であると歌うおもろさうしがあります(※おもろさうしとは・・・首里王府が統治下の島々に伝わる歌を収録、編集したもの)。
まきよ 選です 降れたれ
百末 手摩られ
又 しねりやみるや仁屋
ふた 選です
又 新垣の庭に
まきよ 選です
又 大祖父の庭に
訳
大昔からの、ニライからおいでになったミルヤ神は、
この部落を選んでこそ、新垣の、祖先の神庭に降りたのだ。
いつまでも末永く祈られてましませ。
(外間守善校注『おもろさうし 下』)
西銘集落には今でも、新垣の庭が残っています。

集落の祭政システム
その集落に最初に住み始めた家を根所(ニージュ)と呼びます。
その家の男主人を根人(ニール)といい、この家の女性から根神(ニーガミ)を選びました。
根神は神女として、御嶽(うたき)と呼ばれる神様と交信する場所で身の安全や豊作を願い祈祷を行います。
御嶽は、神います杜というほどの意で、高い山もあれば平地の杜もあり、中には水田の中の叢林もある。高く秀でたクバの木、アザカ、シキヨが生い茂っていることが、御嶽の条件であった。
御嶽の中には現世と異界の境界線を示す岩がおかれ、神女はそこで神々と交信を行ったと言います。
※久米島山里集落にある(おそらく)御嶽の跡
久米島に現在確認されている御嶽は30か所以上、一説によるとその倍以上の御嶽があるのではないかと言われています。
これらの神女の中で有力なものは、後に、琉球王府が作り上げた聞得大君をトップとする三十三神女体制の中で『ノロ』と呼ばれるようになりました。
地域のエリート『ひや』
根人の中でも大きな共同体をまとめるリーダーを
『ひや』とか『ヲヒヤ』とか『大屋』と呼びました。
彼らは『地域名+ひや』で呼称されることが多く。
有名な『堂のひや』は『堂地区のリーダー』ということになります。
部落生活の時代も、15世紀の按司たちの勃興により終わりを迎えます。
そのときに活躍するのが、この『ひや』と呼ばれた土着のエリートたちです。
その活躍はまたまとめていきます。
とりあえず、詳解島の歴史:部落生活、祭政一致の時代をお届けしました。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
【参考文献】
・仲原善忠全集 第三巻 民俗
・沖縄・久米島から日本国家を読み解く 佐藤勝
・おもろさうし下 外間守善
・久米島の民俗文化 上江洲均
※まだまだ浅学なものが書いております。
記述に誤りがありましたら、教えていただけると幸いです。
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