御嶽(うたき)って何?よく聞かれるので詳しく説明してみます!

The following two tabs change content below.

こんにちは!

島暮らしのおかもってぃです。

久米島、および沖縄には、御嶽(うたき)と呼ばれる場所がたくさんあります。

御嶽とは、『神官が神様と交信するところ』と言ってしまえばそれまでなんですが、詳しく理解したい方のために、もう少しだけ解説してみようと思います。

どこにあるの?

人が集落を形成するときに、その集落ごとに御嶽が設定されました。

なので基本は一集落につき、一つ御嶽があることになります。

どんな場所が御嶽になったかというと、

これについては久米島の偉大な民俗学研究家、仲原善忠さんの解説が参考になります。

●御嶽とは?(仲原善忠『太陽崇拝と火の神』より)
御嶽は、神います杜というほどの意で、高い山もあれば平地の杜もあり、中には水田の中の叢林もある。高く秀でたクバの木、アザカ、シキヨが生い茂っていることが、御嶽の条件であった。

久米島字西銘にある上江洲御嶽、ただの森といえば森の気もする・・・

人工的に作られた何かではなくて、やや背の高い木々や森などを御嶽としていました。

神々が降臨する御嶽の頂上・もしくは中央は『いべ』と呼ばれ、『いべ』と現世の境界には石垣が置かれることがありました。

神女はこの石垣の前で神々に祈祷をします。

上江洲御嶽をもう少し近くで見てみる。岩はあるが、たぶんただの岩・・・

なんの神様と交信するの?

説明出来ない自然現象を人智を超えた何かの仕業と恐れ、崇め奉る風習は、日本全土に見受けることが出来ます。

沖縄においても古代の人は様々な神様を信じていたと考えられます。

●仲原善忠『久米島史話』より
昔の人はそれでどんな神を信じていたかと言うに、天の神・海の神・森の神・泉の神・井戸の神・火の神・大きな石の神等いろいろの神があり、また普通の人とちがった人、例えば按司なども死んで神霊になると考えた。

これらの神々は、ニライ・カナイという、海のかなたにある異界に住んでいると信じられていました。
(ニライ・カナイが祖霊の住まう世界を包括する概念なのかどうかは議論が分かれます)

このニライカナイの神々は、人々に福をもたらすこともあれば、災厄をもたらすこともある、畏怖の対象でした。

●ニライ・カナイとは?(『沖縄大百科事典下』より)
ニライ・カナイ にるや・かなや、ぎらい・かないなどの呼び方もある。沖縄の祭祀儀礼のなかに見出される世界観のうち、人間の住む世界と対比的に認識された世界。別の世界を意味する。ニライ・カナイという世界が、海のかなた、もしくは地の底にあって、そこから人間の世界、村落に神々が訪れてきて、様々な豊穣、幸などをもたらしてくれるという神観念、超自然館と結びついた他界観である。
(略)
ニライ・カナイに対する民族社会の人々のイメージは、たんに理想郷・幸福の根源として捉えているのではなく、ときに悪しきもの、災いなどをもたらすものの住む世界の意味もあり、両義的なものとされている。

このニライ・カナイの神々と交信し、五穀豊穣を願う、それが御嶽の作られた一番の理由だったようです。

誰がお祈りするの?

お祈りは根神(ニーガミ)と呼ばれた神女が担当しました。

根神は各集落の宗家にあたる家から代々選ばれます。

その中でも、特に霊力が強い根神たちは琉球王朝の三十三君体制の中で、ノロと呼ばれることになります。

三十三君にも選ばれた君南風(チンベー)は、久米島の神女体制の中で最高位の神女で、琉球王朝のオヤケアカハチ討伐の際に大活躍したと伝えられています。

神女体制の衰退

神女を中心とした御嶽信仰は、祭政が一致していた部落生活時代、なくてはならない存在でした。

しかし、13~15世紀ごろ、琉球に栄えた按司たちにとって、自分たち以外の権力者は基本的に邪魔な存在。

按司によっては御嶽を占領し、そこに城を築いたものもいたそうです。

山の頂上は城を建設するのに向いてますからね。

 

1429年に琉球を統一した尚氏は仏教を重んじていましたが、聞得大君をトップとした三十三君体制を整えます。

八重山のオヤケアカハチ討伐の際も、久米島の神女「チンベー」を引き連れていくなど、その霊力に頼る一面もあったようです。

 

仏教と神女って矛盾すると思うんですけど、なんでなんですかね。

今の日本みたいにいろいろな宗教が混ざっていても大丈夫だったのかもしれません。

 

しかし、その後 三十三君の多くは整備され、ほとんどの神女は姿を消すことになります。

琉球王府時代、聞得大君を中心とした神女体制はなんとか残り続けましたが、

島津軍の侵略を受けた後、1879年の廃藩置県により完全に廃止されます。

地方に残っていたノロも、種々の行事は取り扱いますが、官吏的な性格を失ってしまいました。

その後、

大戦による御嶽の破壊

部落の移動、解散

教育の普及

などの要因により、沖縄に長らく行われてきた御嶽信仰はほぼ廃れてしまいました。

 

一応現在も、久米島にはノロ、そしてチンベーが存在し、各種の行事を取り行っています。

他の沖縄にもまだ神女が残っている地域はありますが、多くの地域が神女の高齢化と跡継ぎ不足で悩んでいます。

このままいくと、神女の伝統は途絶えてしまう危険性が高いそうです。

伝統といっしょに消えてしまうものは何か?

伝統をいかに守るか。

これは人口減少、高齢化の進む日本のあらゆるところで課題となっていることだと思います。

 

でも、その考え方だけで立ち止まらずに

伝統が滅んでしまったら何が起きるのか?

それらが守ってきたものは何なのか?

ということを考える必要があるんじゃないかと、個人的には思っています。

 

ノロや御嶽信仰の場合、その起源は自然界への畏怖にあたるはずです。

当時の人はその恐怖・威力を肌で感じていたんだと思います。

人智ではコントロールしようがない天災、その権威の前に人間が出来ることは真摯に祈りを捧げることだけ。

御嶽信仰によって人々が維持してきたのは、この自然に対する謙虚な姿勢なのかなと思います。

まだまだ言葉が浅いですが・・・

そう考えると、科学主義が発達した現在、もうその根本は失われつつあるのかもしれません。

 

 

以上、御嶽についてまとめてみました。

結局、御嶽それ自体以上に、いろいろと書いてしまいました。

興味を持たれた方は、ぜひいろいろと調べてみてください。

【参考文献】
・沖縄・久米島から日本国家を読み解く 佐藤勝
・沖縄の祖先祭祀 平敷令治
・仲原善忠全集 第三巻 民俗

※まだまだ浅学なものが書いております。
記述に誤りがありましたら教えていただけると幸いです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください