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こんにちは!
島暮らしのおかもってぃです。
島の歴史を知ってから観光した方が絶対面白い!
越してきてから島についていろいろ調べて思ったことです。
そんなわけでこのブログでも久米島の歴史を紹介していきます。
本日は先史時代から琉球王府による討伐にいたるまでを概観します。
●忙しい人のために10秒で読めるまとめ!
・火山島である久米島には古くから人が住み着き狩猟採集生活を送っていた。
・中国との交流が盛んで古来より稲作を営んできた。
・15世紀ごろまで独立を保ってきたが、尚真王による討伐を受け、以降琉球の属国になる。
目次
狩猟採集生活
最古の人類、下地原洞人
火山活動によって生じた火山島である久米島。
この島には古くから人が住み着いて、狩猟採集生活を営んでいたと言います。
島の西岸部の至るところに貝塚が見られ、また同じく久米島の西海岸にある下地原洞穴から1万5000年~2万年ほど前の幼児の骨が見つかっています。
その穴にちなんで、この小人は『下地原洞人』と名づけられました。
また、その穴から鹿の化石も出土していることから大型の哺乳類も当時生活していたことがうかがえます。
ちなみに、石灰岩を主成分とする久米島の西岸一帯は鍾乳洞が出来やすい地質です。
地下にはまだ発見されていない鍾乳洞がたくさんあるのではないかと言われているため、
採掘捜査等が行われたらさらなる大発見を生む可能性もあるそうです。
稲作・交易の島、久米島
最古の記述は続日本紀
久米島の名が日本史に登場するのは『続日本紀』。
それによると和銅7年(714年)に、大和朝廷の役人が久米島にも来たらしく
「大朝臣遠建治らが、奄美や信覚、球美等の島人52人を率いて、南島より帰朝した」との記述があります。
久米島の名前の由来
『球美』は久米島を表す『クミ』と発音したのを表記したものとみられ、
他にも朝鮮の『李朝実録』に於いては『仇弥』、『海東諸国記』では『九米』
中国の『陳侃使緑』では『古米』と表現されています。
『久米』は米に関係する古い地名であり、水の豊かな久米島では古くから稲作を営んでいたことからこのように呼ばれるようになったと言われています。
事実、8世紀ごろとみられる米の遺跡が、ヤジヤーガマや下地原洞穴でも見つかっています。
中国及び南蛮との交易
古くから交易の地として栄えた久米島は、中国との交流を盛んに行ってきました。
およそ2000年前の中国の漢王朝で使われていた貨幣が貝塚から発見されており、古来より中国と交流してきたことが分かります。
そう考えると8世紀よりもっと前から、米が伝わっていたとしても不思議ではないですよね。
また、13世紀ごろはフィリピンやジャワなど南洋の諸国とも交易を行っていたようで
こんな伝説も残っています。
南蛮通いの女
仲里の島尻に住むとある夫婦。
夜になると妻は夜なべをする習慣がありました。
ある日帰ってきた妻の裾が濡れていることから、夫は妻をストーキング!
今も昔も疑い深い男がやることは変わらないですね。
すると妻は小舟を出して沖に行ってしまい、一番鶏がなく頃に帰って来たという。
何をしているのだろうと不思議に思った夫は、ある日船に忍び込みます。
すると、妻がこぐ船はあっという間に南蛮に着いてしまったそうです。
妻は胡椒をたくさん手に入れて戻ってくるのですが、
そのことを夫が言いふらして以降、妻は南蛮にはいかなくなってしまったそうです。
久米島と沖縄本島
長らく対等な関係で交易
物理的にも距離が近い久米島と沖縄本島は何かしらの交流があってしかるべきですが、沖縄の歴史に載っているのは、英祖王のときからだそうです。
英祖王は13世紀に活躍した沖縄の王で、この英祖王の時代、1264年に久米島の使者が朝貢したと記録が残っています。
ただし、まだ支配関係にあるわけではなくそれぞれ独立した国家として一種の貿易のような形であったとのこと。
久米島は沖縄本島に向かう中国船の中継地点にもなるので、おそらく古くからこのような形で交易があったと思われます。
按司による支配を受け、その後琉球王府に組み込まれる
しかし、その後の数100年でこの関係性は大きく変わります。
きっかけは沖縄本島での権力争い。
英祖王の死後、即位した玉城王の悪政が、各地の按司の反駁を招きます。
その結果、沖縄は南山、中山、北山の3つに分断され、以後90年間戦国時代が続きます。
これを三山分立時代と呼びますが、このとき権力争いに敗れた按司が久米島にも渡ってきて島を支配し始めました。
これが久米島の按司時代、15世紀ごろの話になります。
按司の時代も久米島は独立した国家を保っていましたが、
その後、三山を統一した尚氏により久米島は滅ぼされてしまいます。
以降、久米島は琉球王朝の属国となりました。
以上、狩猟採集から交易の時代までをさっとまとめました。
狩猟採集時代の後の『集落自治の時代』『按司の時代』はまた別途詳しくまとめていきます。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
【参照】
久米島史話(仲原善忠)
久米島の民俗文化(上江洲均)
沖縄・久米島から日本国家を読み解く(佐藤勝)
※まだまだ浅学な者が書いております。
もし、記述に誤りがありましたらお知らせいただけると幸いです。
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