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人には人の、生きてきた人生があるように
土地には土地の、紡いできた物語があります。
人口減少・超少子高齢化など、未曽有の危機に直面する昨今、土地の歴史を見直し、久米島が有してきた価値観、島としての気質を明らかにする必要があるのではないかと思います。
久米島は受け入れの気質がある、とよく言われます。
水が豊かで米が豊富だった久米島は、古くから豊かな島。
だからこそ、外から来た人たちを積極的に受け入れてきた歴史があります。
ただし、久米島はただの受け入れの島ではありません。
僕なりに解釈した久米島の受容性とは『セジを読み、外部と共存する力』です。
セジを読むとは、潮目を読むこと、天命を読むこと。
大きな流れには逆らわず、外来のリソースと上手く共存する。
これが久米島の生存戦略だと考えています。
今回の連載では、歴史を紐解きながら、このような久米島性を明らかにしていきたいと思います。
第7章は「土着のエリート、ひや」
久米島が誇る民俗学者、仲原善忠氏は久米島を4つの時代に区分しました。
- 部落生活時代
- 按司時代
- 旧藩時代
- 明治大正時代
15世紀の始めごろまでの久米島は、部落生活時代。
神女が祭祀を司り、祭政一致の共同体を運営していました。
彼女らは大きな権威を持っていましたが、神女とは別に集落のリーダー、村長みたいな人がいました。
彼らを『ひや』や『仁屋(にや)』と呼びます。
神女が祈祷により方向性を示し、ひやが意思決定を行う。
そのように集落が運営されていたのではないかと思います。
ひやは、言ってみればその集落の官僚、エリートでした。
さて、そんな風に共同体が運営されていたところに、外来の為政者、『按司』が侵入。
久米島は按司時代へと突入していきます。
武力を持って島を支配しようとした按司たちに、既存のリーダー、ひやはどのように対応したのか?
共同体の繁栄のために、彼らが下した選択をみていきたいと思います。
序章「はじめに」
第1章「歴史を知る意義とは?」
第2章「琉球の古代信仰~御嶽信仰とは?」
第3章「琉球の古代信仰~火の神信仰とは?」
第4章「琉球古代信仰の衰退」
第5章「久米島の最高神女、君南風」
第6章「セジ(霊力)とは何か?」
目次
集落のリーダー、ひや
按司の侵入
12世紀頃から、沖縄本島には按司と呼ばれる豪族が出現し始めます。
彼らは武力を持って、各地域を支配していきました。
そんな中、特に強力だった按司たちが沖縄の北部、中部、南部に分かれて対立しあう三山分立の時代を迎えます。
この闘争に終止符を打ちったのが尚氏。
一介の地方按司に過ぎなかった尚氏でしたが、中山王、北山王、南山王の順に撃ち滅ぼし、1429年に沖縄本島の統一に成功しました。
敗れた按司たちはどうなったのか?
実はその一部が久米島にたどり着き、島を支配し始めたんです。
久米島が按司に支配されていたのは、1400年代初頭から、1500年代のはじめまで。
およそ80年ほどだったと言われています。
島にたどり着いた按司たちは、各地域に城を作り、住民から租税を取り立て始めました。
そんな久米島の按司時代において、栄華を極めたのが伊敷索(ちなは)一族。
彼らは一族を以てして久米島全土を支配下に置きました。
しかし、琉球全土の統一を目論んだ尚真王により彼らは撃ち滅ぼされ、わずか30年ばかりで彼らの時代は幕を閉じることになりました。
祭政一致時代⇒按司による支配⇒尚氏による支配
わずか100年ばかりの間に社会構造の劇的な変化を経験した集落のリーダー、ひや。
彼らはこの時勢の変化に対応するために、時の権力者、セジを有したものに積極的に協力するという姿勢を取ります。
御嶽に築城することを勧めた仲地にや
現在のミーフガー辺りに昔は集落があったといいます。
仲地にやはその付近の集落のリーダーでした。
久米島にやってきた『まだふつ按司』は青名崎というところに城を建てようとします。
それを見かけた仲地にやは、現在の具志川城跡がある場所への築城を勧めます。
●城建設のアドバイスをする仲地にや(仲原善忠全集『久米島史話』より)
「ここは殊更に地形がわるく、よい城は出来ませぬ、北の方に行くと山があり、南と北西は断崖で東の方は少しひらいて門も広く長く造れるよい地形になっており、城建てには最上の地と思います。」
具志川城跡があったところはもともと御嶽(うたき)。
神々と交信する大切な場所でした。
しかし、その場所を積極的に差し出し按司に協力したのです。
その後、仲地にやはまだふつ按司の側近になることに成功。
個人の欲望ももしかしたらあったかもしれませんが、時勢を感じ、為政者に積極的に与する選択をしたのでした。
その後、具志川城跡は中国や南蛮とも交流をし、貿易の拠点として栄えます。
天命を察し主君を裏切る世直しのひや
具志川城跡はその後、伊敷索按司の次男、まにくたる按司に乗っ取られます。
そのまにくたる按司に仕えたのが世直しのひやでした。
彼も元々久米島の人民から尊敬を集めていた集落のリーダーでしたが、伊敷索一族の長、伊敷索按司によりまにくたる按司の乳父に任命され、その務めを全うします。
しかし、首里王府が攻めてきて、具志川城跡もこれまでだと分かると、まにくたる按司を裏切ります。
城を落とすのに苦戦していた首里王府に具志川城跡の弱点を教え、かつ自分が按司を暗殺するとまで進言するのです。
●世直しのひやの謀反(仲原善忠全集『久米島史話』より)
具志川按司の乳父「よなふしのひや」という者あり「お運のつきた主人をたよっていても仕方がない」と首里軍に内通し、密かに城を出て(首里の)大将の前に行き「この城は水止めをしなければなかなか落城いたしませぬ。城内に通う水道をふさげば按司はきっと井口に出て参ります。その時私が門の石垣の上から大石をなげおとし、按司を打ち殺します」
ここまでやるか!?というくらいに徹底的に裏切りってますね。
その後、実際に井口の方で隠れて待っていた世直しのひやは按司の兜めがけて大石を投げ下ろしたそうです。
ただし按司を仕留めることは失敗、逆に呪い(?)をかけられます。
●石を落とされ驚いた按司は・・・(仲原善忠全集『久米島史話』より)
貴様、打ち果たすべきだが乳父だから許してやる。悪心を起こしたむくいに、子孫は繁昌せぬであろう。この城を登るときは「ちんし(ひざ)」から下は着物はかかげ・・・尻端を折りて入れ。
このあと、具志川按司の妻子と2歳の次男は敵に見つかり自害を選択。
具志川按司と嫡子は行方不明になりました。
呪いをかけられた世直しのひやの子孫はその後300年間、昭和12年まで、具志川城跡に登るときには膝より下に衣をかかげたそうです。
堂のひやという人物
最後を占めるのは堂のひや。
堂のひやは
- 養蚕技術を発展させた
- 太陽を観測し、季節を計った
- 航海術に長け中国とも貿易を行っていた
などなど、島の発展に寄与した人物だと言われています。
きっと島の人に尊敬されていたリーダーだったのでしょう。
そんな聡明なリーダーが活躍していた集落にも、按司がやってきます。
彼らの武力を知った堂のひやは、彼らに積極的に協力します。
伊敷索一族の長男は、大城山というところに城を建てようとしていました。
それを見た堂のひやはオトチコバラという神女を差し向け、「城を建てるのであれば中城御嶽(現在の宇江城)がよろしゅうございます」と進言させるのです。
実際に場所を見てみると、なるほど、城建設には最適の地だ。
ということになり、ここに中城(現在の宇江城)を築城することになるのです。
これにより堂のひやは中城按司の側近として仕えることに成功します。
そして、民衆から租税を取り立てる役回りをするなど、積極的に按司の支配に協力し、按司からの信頼を勝ち得ていくのです。
しかし、長らく仕えていた中城按司も、首里軍に攻め込まれてしまいます。
難攻不落と思われた中城城跡は火攻めによって陥落。
もはやこれまでと悟った中城按司は、自分の子どもを堂のひやに預けて、その後行方不明になってしまったそうです。
子どもを預けられた堂のひやはその後、髪を結うふりをして按司の子どもを殺害してしまいます。
そして自らが中城の主になろうと、従者を従えて中城に上っているときに落馬。
腰に差していた剣に貫かれ死んでしまったとの伝説が残っています。
真偽のほどは定かではありませんが、世直しのひやと同じく、堂のひやも按司の威勢が良いときは、彼らに積極的に協力。
彼らの時代が終わったことを悟る、セジが離れたことを感じると按司を裏切り、首里王府に与することを選んだのでした。
ただ、天命があったのは首里王府であり、堂のひやではなかったことが、彼が落馬して死んでしまった原因なのでしょう。
そこだけは見誤ってしまったみたいですね。
共同体のリーダーが守ろうとしたもの
以上で見てきたように、かつて集落を取り仕切っていたリーダーたちは、外来の為政者、按司に積極的に協力しました。
そして、その権威が首里王府に移ると彼らをたやすく裏切ります。
彼らは、主君を裏切った不義理な人物なのでしょうか?
たしかに見方によっては、忠義に欠けた人物の話としても捉えられるでしょう。
しかし、元々按司たちは外来の為政者。
平穏だった久米島に武力を持ち込み、民を支配し、租税を取り立て始めた侵入者です。
この按司たちに心から服従することが果たして可能だったのでしょうか?
『自らの一族の繁栄』を願う彼らに忠義を誓うことが理に適っていることなのでしょうか?
かつてのリーダー、ひや達が守ろうとしたのは島・集落という共同体、及びそこに関わる人の生命でした。
時勢に逆らい、無理に自らの権威を保持しようとすれば、戦死してしまうものも少なくはなかったでしょう。
そのリスクを考慮したときに彼らが取った選択は、長いものに賢く巻かれること。
『セジを読み、外部と共存する』ということだったのです。
●ひやが守ったもの(仲原善忠全集『久米島史話』より)
堂のひや以下の島人達が自衛のため彼ら武力侵入者たるよそ者と妥協し、あるいは自己の繁栄のためにこれを利用したであろうことも、あながち無理な考え方ではなかろう。
主君を裏切った不義理な人物ではなく、島・集落という共同体を守ろうとしたリーダーとして暗躍していたのが、彼らの真の姿なのではないかと思います。
堕ちたものは受け入れる
久米島で栄えた按司たちの中に、一人だけ子孫を残したと言われている按司がいます。
それが具志川城主、まにくたる按司。
行方不明になったと言われた彼ですが、島民の間に紛れ生き残ったのではないかと言われているんです。
実際にまにくたる按司の子孫なのではないかと言われる家系がいくつかあり、その家系では名前に「智」という文字を使う風習があるそうです。
面白いのは、かつての支配者、按司を受け入れた島民の気質です。
税金を取り立てていた権力者がその地位を失ったら、いじめたくなるじゃないですか。
しかし、久米島島民は受け入れるという選択をしました。
セジを読み、時の為政者に従いつつも、セジに見放されたものを追放はしない。
そんな優しさ、受け入れの島、久米島としてルーツがこんな話に中にも表れている気がします。
まとめ
以上、各集落のリーダー、ひやについてでした。
久米島で按司が栄えた時代の話は、伊敷索一族を主人公とした話で語られがちです。
たしかに、伊敷索按司(父)とがさし若ちゃら(三男)の悲劇的な対立があり、ドラマチックで面白い話です。
※按司の時代について詳しく知りたい方は以下より
しかし、外来の為政者、按司の下で、久米島という共同体の存続を考え行動したリーダー達がいました。
突然の侵入者に逆らうでもなく、ただへつらうだけでもなく、積極的に協力し、支配を受けながらも地位を維持する。
かつ、権力を失った為政者を排除しない。
そんな彼らの気質、『セジを読み、外部と共存する力』は現在の久米島を生きる人にも受け継がれているのではないかと思います。
次回は、受け入れの島を体現したエピソードを紹介していきます。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
それでは素敵なKumejimaLifeを♪
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