【久米島の過去・現在・未来を紡ぐ】第8章「受け入れの島、久米島」

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島暮らしのおかもってぃ
地域おこし協力隊。東京生まれ東京育ちのシティボーイ。マニアック過ぎて役に立たない久米島情報を発信中!
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人には人の、生きてきた人生があるように

土地には土地の、紡いできた物語があります。

 

人口減少・超少子高齢化など、未曽有の危機に直面する昨今、土地の歴史を見直し、久米島が有してきた価値観、島としての気質を明らかにする必要があるのではないかと思います。

 

久米島は受け入れの気質がある、とよく言われます。

水が豊かで米が豊富だった久米島は、古くから豊かな島。

だからこそ、外から来た人たちを積極的に受け入れてきた歴史があります。

 

ただし、久米島はただの受け入れの島ではありません。

僕なりに解釈した久米島の受容性とは『セジを読み、外部と共存する力』です。

セジを読むとは、潮目を読むこと、天命を読むこと。

大きな流れには逆らわず、外来のリソースと上手く共存する。

これが久米島の生存戦略だと考えています。

 

今回の連載では、歴史を紐解きながら、このような久米島性を明らかにしていきたいと思います。

第8章は「受け入れの島、久米島」

僕自身、大学院での実験生活から、半ば逃げるような形で久米島に引っ越してきました。

この世に生を受けたからには、何かを成し遂げなければならない。

何者かにならなければならない。

そんな風に生き急いでいました。

 

その尖りが取れたのは、久米島に、地域に、受け入れてもらったから

 

島には人を受け入れる素地があります。

今回はそんな久米島性、「受け入れの島」を体現したエピソードを紹介していきたいと思います。

受け入れの島、久米島

中国船の難破事件

1756年、中国からの冊封使(中国の皇帝の使者)が乗った船が台風のために久米島真謝沖で遭難してしまうという事件が起きました。

このとき久米島島民は、一人の死者を出すこともなく、乗組員約200名全員を救助。

その後、船の修繕も行い、冊封使は無事那覇に向かうことが出来たそうです。

 

久米島の真謝にある『天皇宮』という建物はこのときのお礼に建てられたもの。

この広場は現在、真謝の角力大会の会場になっていたりします。

1人の死者を出すこともなく、200名余りをどのように救助したのか?

詳細な記述はありませんが、台風のさなか、身の危険を冒しても救助にいった島民の勇敢さがうかがえるエピソードです。

硫黄鳥島の大噴火

硫黄鳥島の写真(気象庁HPより)

硫黄鳥島は沖縄県の最北端の離島。

古来より硫黄の産地として知られていました。

琉球王府時代、硫黄は中国(明)への進貢品として欠かせないものだったと言います。

しかし、硫黄鳥島は活火山の島。

記録によると1631年、1829年に大きな噴火が起き、死傷者を多数出しているそうです。

また元来貧しい土地で飢饉も起きやすかったそう。

1883年、琉球王府の役人は硫黄鳥島の立地や島民の生活状態からして、とうてい住むべき土地ではないと判断。

島で島民大会を開き、久米島に移住するようにと説き伏せたそうです。

しかし、島民はことごとく移住に反対。

当時の島民の心情を謳った詩にこんなものがあるそうです。

いかな久米島や 楽な国やてん

あわれ鳥島ど ましやあらに

生活が苦しい貧しい島であっても、古くから住み続けてきた土地を捨て去るのは耐え難いものだったのでしょう。

結局そのときは移住には至りませんでした。

しかし、1903年、再び大きな噴火が起きます。

住民の多くがもう鳥島に住み続けるのを諦めました。

再び島民大会を開いたところ、住民の多くが移住に賛成しました。

反対だった人たちも、賛成派が説き伏せ、久米島の現在の字鳥島に移住が決まります。

 

久米島の鳥島地区は、もともとはアダンやソテツが繁茂していた土地だったそうですが、久米島具志川村の15歳以上の男子総勢2000人で3日間にわたって整地を行ったそうです。

久米島の字鳥島には当時の硫黄鳥島の神社のご神体を祀った七嶽神社があります。

なぜ久米島だったのか?

久米島が選ばれた理由が明確に書かれている文献は見つかりませんでしたが、調べてみるとなんとなく理由が分かってきました。

  • 久米島は水が豊富で豊かな島であること
  • 相次ぐ疫病で人口が半減し、人手がいなかったこと
  • 薩摩からの課税に苦しむ琉球王府は、税の徴収先を欲していたこと

この3つが久米島移住を琉球王府が勧めた理由なのではないかと思います。

 

琉球王府が硫黄鳥島の住民に、久米島移住を勧めたのは1883年(実際に移住したのは1903年)。

実はこのときの久米島は、1700年代後半から続く度重なる疫病の流行で、極度に疲弊中でした。

記録にある最後の流行は1850年、天然痘の流行。

1737年には5740人いた仲里村の人口は、1879年には2523人、半数以下に落ち込んでしまっています。

1883年は人口が極度に減少したあと。

島を切り開いていく人材がいなかったんだと思います。

久米島は元来水が湧き出る豊かな土地。

人員さえ確保できれば、作物が豊富に実るはず。

このときの琉球王府も薩摩藩の支配下にあり、課税に苦しんでいました

そこで本来豊かな久米島から年貢を確保しようと考えたのではないでしょうか。

 

硫黄鳥島は不作の年が多く、ときには税を免除することもあったそうです。

「税が取れる見込みのない土地に住み続けるよりも、移住して農業やって年貢を納めてくれよ!」

火山噴火によって移住せざるを得ない状況であったのは間違いないと思いますが、その辺が首里王府の本音だったのかもしれません。

 

本当は、「久米島が豊かだったから移民を受け入れられた」という文脈で語りたかったのですが、「久米島は(潜在的に)豊かだったから、首里王府が移住を勧めた」という方が正しそうな気がしますね。

豊かになる可能性がある島だったから受け入れることが出来たのは間違いないとは思いますが。

 

その後、硫黄鳥島からの移民以外にも、具志川の大原や仲里の銭田、真我里、真泊など、他の土地に移民が住み始め、人口は100年余りで1万人以上に増加します。

潜在的に豊かだった久米島は、人々に手によって本当に豊かな島に変わっていったんだと思います。

福島の子どもたちの保養施設「NPO法人球美の里」

NPO法人球美の里は、2011年の福島第一原発事故によって被災した子どもたちを支援するための保養施設。

月刊誌DAYS JAPANの編集長だった広河隆一が中心となり、2012年の7月に設立されました。

保養施設を探していたところ、久米島出身の元沖縄県知事、故大田昌秀氏より久米島を紹介してもらったそうです。

汚染された土地に今も住んでいる子どもたちは、外で思いっきり遊ぶことが出来ません。

そんな子どもたちが受け入れ、安心安全な久米島でのびのびと遊ぶことでストレスから解放され、汚染されていない食物を食べることで、体内被曝の進行から解放され、抵抗力、免疫力をつけることを目的としています。

安全な環境で一定期間保養することによって、免疫機能を回復し、病気になりにくい体を作ることが可能とのこと。

 

設立以来、子どもたちを交通費・滞在費無料で受け入れ続け、すでに2736名の子ども達、また678名の保護者、合計3414名を受け入れていきました(2017年8月末現在)。

僕自身、何度かお邪魔させていただいたことはあるのですが、ボランティアスタッフさんと子供たちのわずか10日ばかりの刹那的な出会い。

そこで育まれる絆が本当に素敵な空間です。

ここで過ごした子供たちが高校生になってまた島に戻ってきたり、そんな嬉しい循環も近年は起こってきているそう。

NPO法人球美の里では、保養に参加してくださるボランティアの方を随時募集中です。

気になる方はNPO法人球美の里HPより。

島在住の方であればいつでも見学に来てくださいとのことです。

知りたい方は、僕でもいいので直接メッセージをくだされば対応いたします。

まとめ

以上、久米島が受け入れの気質を体現してきたエピソードをいくつか紹介しました。

古くは貿易の中継地点として栄えていた久米島。

その歴史もあり、外部から来た人たちとやり取りをし、交流をするのはごく自然な事だったのでしょう。

その性質は現代にも受け継がれているのではないかと思います。

 

そんな受け入れの島、久米島にも幾たびか危機が訪れます。

次回はそんな危機に立ち向かった男たちを紹介していきたいと思います~。

最後まで読んでくださりありがとうございました!

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