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こんにちは!
島暮らしのおかもってぃです。
久米島町の人口を調べられる範囲で調べてみてグラフにしてみました。
ただそれだけの記事です。

グラフはこう。
仲里村誌、具志川村誌から、1800年代前後のデータは持ってきました。
使用した元データはコチラ。

人口の変動要因
①飢饉と疫病の流行
1744年には1万に近くいた人口は100年後に半分ほどになってしまっています。
推定値として4800人としましたが、おそらくもっと減ったと思います。
この原因は相次ぐ飢饉と疫病。
具志川村誌より、この時期に久米島を襲った災害を見てみると
- 1706年:夏の大干ばつに続いて大飢饉
- 1707年:雨が降らず水田が不作
- 1709年:大干ばつ及び台風多発、続く飢饉
- 1710年:台風、そして前年から引き続き飢饉
- 1714年:前年から引き続き飢饉
- 1772年:疫痢流行、多数の人命を失う
- 1778年:疱瘡流行
- 1781年:大暴風
- 1783年:血痢流行、住民の半数を失う、飢饉続く
- 1784年:血痢流行、飢饉が続く、そして台風が襲う
こうして相次ぐ災害により、具志川村の人口は3,963人(1744年)⇒1,255人(1,847人)に激減してしまいます。
続いては仲里村誌より
- 1737年:仲里村の人口は5740人
- 1773年:疫痢流行、死者500人
- 1777年:天然痘流行、死者数不明
- 1785年:疫痢流行、住民の半数が死ぬ
- 1788年:仲里村の人口は3268人
- 1809年:麻疹流行、死者1450人
- 1840年:天然痘流行、死者数不明
- 1850年:天然痘流行:死者数不明
- 1879年:仲里村の人口は2523人
仲里村の人口も5,740人⇒2,523人と半数以下に減ってしまいました。
また、このときは琉球王府への税と薩摩藩への上納品、二重の税を納めなければならず、住民の生活は大変苦しいものがありました。
②移住者が相次ぐ
その後、島の人口は急激に増加し、わずか50年ほどで1万人を超します。
これは、沖縄本島や他の離島から移住者が相次いだためと考えられます。
1903年には硫黄鳥島からは約500人の島民が移住。
また、銭田や島尻、大原や北原などの土地にも移住者が相次ぎ、島の人口は爆発的に増えていきました。
③戦後の人口増加と急激な現象
理由は分からないのですが、終戦後、人口が急激に伸び、1955年にはピークに達しました。
しかし、その後、島の人口は減り続け、1万人強に落ち着きます。
ちょうど、沖縄がアメリカ領だった時期と一致しますね。
なぜこの時期に人口がこんなに減ったのか?
分かる方がいらっしゃいましたら教えていただければと思います。
④1990年から現在まで続く年間100人の人口減少
その後、1990年から現在に続くまで、人口が減り続けています。
1990年を境に人口がこうまで減り続けた原因は何なのでしょうか?
バブル崩壊後に一気に減ってるイメージですね。
どなたか原因が分かったら教えてください。
以上、久米島の人口の推移をグラフにしてみました記事でした。
ただそれだけ!
それでは素敵なKumejimaLifeを♪
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