- 【島出たのでまとめます】久米島でやり残したことベスト5! - 2020年3月26日
- 【御礼とご報告】地域おこし協力隊として3年間、町の職員として2年間の計5年間を終え、今年度で久米島を離れることになりました。 - 2020年2月17日
- 僕は島で、人間になることを決意したvol.2『人生の行く末が見えなくなった大学時代』 - 2019年11月3日
こんにちは!
島暮らしのおかもってぃです。
先日、2月12日は旧暦の1月16日(ジュウルクニチー)。
『あの世の正月』にあたる日でした。
この日はみんな、ご先祖様のお墓の前に集まり供養をします。
他にも沖縄には、祖先を祭る多くの行事が存在するのですが、
沖縄には昔から祖先崇拝の思想があったわけではありません。
沖縄にもともとあったのは、御嶽の神と火の神を中心とした固有信仰です。
それらが次第に祖先崇拝に置き換えられていったと仲原善忠氏は述べています。
祖先崇拝の考え方が普及してきたのは15世紀ごろ、
琉球列島に台頭し始めた按司(豪族)たちが統治者の論理である『儒教』の精神を中国から持ち込んだことに由来します。
為政者にとって都合のよい儒教の論理が普及し、沖縄の固有信仰は衰えていってしまったそうです。
前回は御嶽信仰について調べてみたので、
今回は沖縄の固有信仰、火の神信仰について勉強していきたいと思います。
・火の神信仰の起源は『火』を神と捉えたアミニズムの一種だった。
・古代の沖縄の人は太陽の偉大さゆえ、太陽を最上神として捉えていた。
・『火』への信仰、太陽崇拝、ニライカナイ、これらの概念が合わさり、火の神信仰は生まれるに至った。
古代琉球の他界観『ニライ・カナイ』
沖縄の方々が有した信仰を知るのに、ニライカナイは避けて通れません。
島国である沖縄では、いつでも広大な大海原をみることが出来ます。
そんな偉大な大海原をみて、古代の人が、水平線の向こうに何か超自然的な世界の存在を感じ取ったのはごく自然なことではないでしょうか。
沖縄の人はその異界を『ニライカナイ』と呼びました。
海のかなたにあるその異界から、神々が地上に降りてきて豊穣やときに災厄をもたらしたと考えていました。
ニライ・カナイ にるや・かなや、ぎらい・かないなどの呼び方もある。沖縄の祭祀儀礼のなかに見出される世界観のうち、人間の住む世界と対比的に認識された世界。別の世界を意味する。ニライ・カナイという世界が、海のかなた、もしくは地の底にあって、そこから人間の世界、村落に神々が訪れてきて、様々な豊穣、幸などをもたらしてくれるという神観念、超自然館と結びついた他界観である。
(略)
ニライ・カナイに対する民族社会の人々のイメージは、たんに理想郷・幸福の根源として捉えているのではなく、ときに悪しきもの、災いなどをもたらすものの住む世界の意味もあり、両義的なものとされている。
ニライカナイの主神は『にらいの大主』と呼ばれます。
この神の名を「君真物(きんまむん)」と言います。
このきんまむんは時を定めて現世に降りてくると考えられていました。
久米島の按司の時代にも、きんまむんの神が降りてきて、若按司のがさし若ちゃらに祝福を届けたらしいですが、これってえらいことなんですね。
天上界のトップの神様が降りなさったわけですから。
学者によって意見は分かれますが、ニライカナイは、死者の魂が行くところではなかったようです。
人間の世界とは一線を画した、超自然的な神々の住む世界。
それがニライカナイでした。
このニライカナイの大主と人間が交信するためのお通し役がいます。
それが火の神です。
火の神とは?
火の神の正体は、ニライの大主、きんまむんの神の分身であると、沖縄学の父、伊波普猷は言っています。
火の神が、神代史にいわゆる御年の神に相当する「にらい大ぬし」の分身ともいうべきもので「にらい・かない」から渡来して聞得大君御殿・三殿及び祝女殿内に鎮座し・・・(以下略)
火の神は、かまどをイメージした3つの石として祀られています。
その形から『お三つもの』と呼ばれます。

久米島、字山里にある三つ石
このように作りたてたものを古くは各家々の台所に祀っていました。
上は尚侯爵家(琉球を統一した尚氏のこと)より下は賤が伏屋に至るまで、かまどのあるところにはどこでも祀られているのを、南島採訪者は見たであろう。
火の神の祭者は一家の主婦。
彼女たちが火の神を通じてニライカナイの大主と交信していたんですね。
祖霊崇拝が始まり、男性優位の封建性が強まってくると、女性が祭祀を執り行う機会は減ってしまいました。
そして明治時代以降、火の神はノロの家に祀られているだけになってしまったようです。
火の神を祀ってあったのは、明治時代までで、その後はノロの家に祀られているだけである。「沖縄ではどこの家の台所にも火の神を祀ってある」というのは、半世紀前のことである。
※この文章が書かれたのは1959年
人々が寄り集まり、部落を作るとき、まず御嶽を選定しそこに部落の守護神を祀ります。
この神を祀るのは共同体の神女、根神やノロと呼ばれる女性たちでした。
一方の火の神は各家々の守り神。
ニライカナイの大主と人間が交信する際のお通し役でした。
部落全体の神様=御嶽の神
家々の神=火の神
そんな役回りだったようです。
ちなみに、御嶽によっては火の神を祀っているところもあるとのことです。
火の神の起源
そもそも火の神はどこから来たのでしょうか?
古代の人々は説明できない自然現象を“神”として崇め、恐れ敬うことで生きてきました。
『火』も原始社会では、災厄と安全をもたらす両義的な存在であったと考えられ、その畏怖が神として祭ることにつながったのではないかと言われています。
火は、原始社会でも生活上欠くべからざるもので、しかも火は勢いあまれば、家を焼き災害を及ぼす危険な性質をもっている。古代人が恐れ敬い、なおざりに扱わず、ついに神と仰ぐに至った、と見える。
古来より日本各地において、様々な自然現象、その背後にある何者かの意志を『神』と呼ぶ習慣がありました。
八百万の神々、アニミズムといったものですね。
沖縄でも同じように、『火』への畏怖の気持ちから信仰につながっていったのではないかということです。
このように『火』は神格化されていったわけですが、なぜ火の神がニライカナイの大主とのお通し役なのか?
そのつながりを知るには、太陽崇拝について知る必要があります。
太陽崇拝とは?
太陽崇拝は沖縄のみならず、エジプトや他の国々でも古くから見られる信仰です。
毎日毎日変わることなく水平線から登り、沈んでいく太陽を見て、人々は頭をたれ、そこに神秘性を見出しました。
沖縄では太陽を『テダ』と呼びました。
太陽を擬人化して、大王と呼んだこともあるそうです。
テルカハ(太陽を擬人化した呼び方)は意志を有し、万能であると考えられた。人々はテルカハをたたえ、尊び、いのり、その加護を求めた。テルカハは、配下の神々に命じ、天降りして王と人民を守らせ、彼みずからも人間の生命を守り、作物の成長を助ける。
人々に五穀豊穣をもたらすなんて、まるでニライカナイの神々みたいですよね。
そうなんです。
この太陽を擬人化した神が『ニライカナイの大主』だと言われているんです。
ニライカナイの大主とは何か、おもろを通じてみれば、東の大主と同じく、太陽を擬人化したものに他ならない。
おそらく、太陽を神格化したところに始まり、
太陽の偉大さゆえに、世界の創造主、ニライカナイの大主と太陽を重ねたのではないかと思います。
また太陽崇拝は、神格化された『火』ともつながっていきます。
太陽と火の神の関連を示す明らかな資料は発見されていないそうですが、
独立的に始まった二つの思想が火と太陽との類似性により結びついていったのではないかと、仲原善忠氏は言っています。
太陽と火の関係は、発生的に見れば、無関係のものであったかもしれない。火の神の信仰も、始めは「火」そのものを対象としたものが、その霊妙な力に神性をみとめ、神を想定したのであろう。その思いつきも、日の出の光景と、三角形のかまどの中で赤々と燃える人の相似性からきたものであろう。
火も太陽も熱いし、明るいですからね。
色も似てますし。
そんな風にして、別々に始まった火の神信仰と太陽崇拝でしたが、
『火=太陽』というイメージが共有され、火の神信仰と太陽崇拝が合わさっていったのだと思われます。
そして先述したように、太陽はニライカナイの大主です。
火の神とニライカナイとのつながりが見えてきますよね。
太陽を神格化した太陽崇拝に始まり、
その偉大さゆえに、テダ(太陽)がニライカナイの大主であるように考えられるようになった。
そして、太陽と火の類似性より、
太陽の分身、すなわちニライカナイの大主の分身が火の神と見なされるようになった。
そんな風にして、ニライカナイへのお通し役としての火の神信仰は生まれていったのではないかと思います。
(太陽崇拝、ニライカナイ、火の神発祥の時系列は分からないのであくまで推測です。いずれにしてもこれら3つが相絡み合い、信仰形態が生まれていったようです。)
まとめ~僕たちは歴史を知らなければならない~
以上、沖縄に伝わる固有信仰、火の神信仰について調べてまとめてみました!
いや~大変でした・・・笑
御嶽信仰も火の神信仰も正直論理が一貫していないことがたくさんあるんです。
まだ腑に落ちていないところも多々ありますが、自分の中である程度スッキリしました!
『元々理系なのに歴史好きなんだね?』
と聞かれることがあります。
僕自身、歴史に興味を持ち始めたのは本当にここ2年。
久米島に引っ越してきてからなので、あんまりいばれないですが、
僕たちは『歴史を知らなければならない』と思います。
なぜ歴史を知らなければならないのか?
それは現在の自分たちを無意識に形作っているものを知るためです。
知った上で自分の人生を生きるためです。
僕らが正しいと思っていること、大切だと思っていることの多くは、
社会的にそうだと言われていることの影響を受けただけに過ぎません。
『人を殺してはいけない』という至極当然に見えるルールでさえもです。
実際に人殺しが『武勲』だと称えられた時代は枚挙にいとまがありません。
歴史を紐解くことで、当時の人々の考えを知ることで
どんな考え方が、どんな状況が、今の自分を作ったのかが見えてきます。
そして重要なことは、どういった歴史や社会が今の自分を構成してきたのかを知り、
『自分が選びたいものを選び取ること』です。
例えば、今の社会では『辛くても耐えること・働き続けること』が美徳とされることもあります。
でも、その考え方が100%正しいかというと絶対にそんなことはありません。
時には逃げて、時には休む、そんなことがあってもいいと思うんですよね。
でも従来の考え方から抜け出せず、昨年度、悲劇的な事件も起きてしまいました。
『辛くても耐えること・働き続けること』という考えは100%正しい訳ではないんです。
社会的にはそう思っている人が多いと言うだけです。
その事実を認識して、自分が信じたいものを自分で選び取ることが出来れば、あんなことは起きなかったはずなんです。
人間は自分が思っている以上に、社会的な考え、思想の影響を強く受けます。
その影響を知り、自由になるために、歴史を知ることは欠かせない作業なんです。
そんなわけでこれからも、久米島の歴史について詳しく書いていきたいと思っています。
今後ともよろしくお願い致します。
【参考文献】
・仲原善忠 『太陽信仰と火の神』(仲原善忠全集より)
・平敷今治 『沖縄の祖先祭祀』
・伊波普猷 『火の神考』
これだけの事、一人で調べられたのはすごいですね。私も久米島に単身で住んでいた頃、火の神を毎日拝んでいました。毎月旧の1日、15日にはチャーギを変え、ウブクを供え、線香を焚いていましたよ。
ゆうたろうさん>
コメントありがとうございます。
そう言っていただけて何よりです。
現代でもしっかり火の神様にお祈りをされていたのですね。
逆に僕は文献の情報しか知らないので、そのような実情を教えてくださると助かります!